中学校時代

アカシヤの大連

澤先生と英語 / 教練の時代 / 夏休み / 開戦の朝 / 戦時色の強化 / 山下兵団と日本軍 / 大連市民生活の変化 / 
「李香蘭」熱 / 昭和18年の厳しい戦局
 / 剣道初段 / 学徒動員 / 陸士・海兵受験熱 / 海兵試験 / 海兵合格 / 海洋訓練

澤先生と英語

 春の陽光が降りそそぐ、昭和十六年四月四日から晴れて可愛い中学生一年坊主が、若葉も出揃わぬポプラ並木の通学路を通い始めた。
 一年二組に組み入れられ、同じ小学校から三人が一緒だったが、担任の澤先生は英語の先生で、この沢先生との出逢いが後年のジュンに大きな影響を与えることとなる。
 中学入学の時期が、支那事変のドロ沼状態になっていた頃であり、戦時体制の強化と共に、「贅沢は敵だ」を合い言葉に、女性は「パーマネントはやめましょう」とか、それまでの華やかだった野球なども贅沢視され、自粛の傾向となり、野球部は廃止となったので、子供心にも当時から中等野球と称して「甲子園」に出場する夢はあったのだが、ジュンは上級生の薦める剣道部に入部したのである。早速、剣道場で素足で立たされ、春とはいえ満州の四月の床はまだまだ冷たかったのを忘れることはできない。
 球技部門で不思議と廃部にならなかったものにアイスホッケー部があったが、これは冬のシーズンに限られるので、その時は入部する気にもならなかったのである。大連一中は、全国的にアイスホッケーでは勇名をはせていたようで、毎年全国制覇を狙っていたのだが、いつも北海道、東北勢に苦杯を舐めさせられていたそうだ。なぜ廃部にならなかったかといえば、アイスホッケーは航空適性を養うのに最も良い球技であるとされ、当時の中学単位に派遣された配属将校からの中止令がなかったのだ。
 とにかく、一中に入ったことで両親は一安心していたし、本人も目新しいことが多く、昭和十六年春の上級学校に合格した先輩達の名前が校門を入ったところの掲示板にデカデカと張り出してあるのを見て、素直に「僕も頑張ろう」と子供心に思ったものだ。
 
 担任の先生が英語の教師ということもあり、目新しい教科目でもあったせいか、人一倍熱心に授業を受けたものだった。その先生は最初から発音記号をまず教え始め、教壇に立つや一言も日本語を喋らず、授業開始時に級長には「スタンダップ」「ボー」「シッツダウン」と言わせたあとは、機関銃のごとく、英語ばかりまくし立てた。
 初めはさっぱり分からなかったものの、毎日五十分の授業を繰り返しやっているうちに、それなりに言っていることが分かりかけてきて、分かれば面白くなりだした。その先生は東京高師出で、在学中は横浜港の近くに住み、外国人と接触が数多くあったらしく、その経験から英語は、まず「聞く」「喋る」ことだと考えておられたようだ。
 現在の英語教育がとやかく言われているが、ジュンの恩師は戦争中でありながら、英語は外国語ではあるが、髪の色、眼の色が違う者の間でも、意思が通じ合わなければ、なんにもならないとの思想の持ち主だったわけである。
 その他の教科では、剣道部に入ったせいもあって、週二回の武道の時間は余裕をもっていた。剣道の先生は四段であったが、まだ若く元気そのもので美男子でもあり、背も高く一流の剣士であった。ジュンが四年終了で、大連一中の過程を終えた時(旧制中学は五年制)、その上村先生は六段に昇進されていた。
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『教練』の時代

 戦時色の強くなった教科で「教練」と言うのがあり、配属将校の指導の下、銃剣術やら陸戦訓練がこれも週二回あり、「武道」(剣道と柔道の二者択一)と「教練」で、一年の間に当時の少年達は見違えるほど逞しくなっていった。
 昭和の小国民として、昭和っ子の連中は、当時の歌で「昭和、昭和、昭和の子供だ、僕達は、身体もキリリ、心もキリリ……」とあるように、身も心も鍛えられた。
 また、「我らは日本男児なり、世界に強い我らなり、幾千万の軍艦も、幾百万の大軍も、少しも恐れることはない、我らが持っている鉄砲に、大和魂の弾を込め、一度にズトンと打ってやる」というように明治の頃から歌われて来た歌の通り国粋的な教育環境の真っ直中にいたのである。
 教科目の中で、前述の高等学校受験に必要なものは、数学、歴史、国語、英語、物理化学であったから、文化系、理科系の違いは多少あっても、どれものどかにできないものばかりである。気分的に楽なのは、音楽、支那語(現時は中国語といわなければいけない)と生物ぐらいであった。一学期の間に桜の花も咲いたはずだが、夏休みに入るまで四季の移り変わりも分からぬ状態で、四ヵ月近くはまたたく間に過ぎた。その学期末に通信簿(成績表)が手渡されたが、学年中四十四番となっていたので、母親からは「まずまず」と言われ、その日の夕食は御馳走にありついたのだ。
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夏休み

 夏休みに入るや、当然宿題らしきものもあったが、剣道部の暑中稽古以外は、もっぱら海水浴か魚釣りに熱中した。特に東京の大学の予科(早稲田)に行っている十一歳も年上の兄貴・猷夫が帰省してからは、毎日のように、陸釣り、船釣りにと目まぐるしい位出かけて行った。何しろ満州(正確には関東州)の海は魚の宝庫で中国人が特定の魚しか食べないせいもあって、メバル、アイナメ等は入れ食い状態で、潮の加減のいい日には、魚篭に二つも三つも満タンにして帰路につくことが多かった。ゴルフに行かぬ土・日には、父親の伸介も一緒で親子三人糸を垂れていた思い出も、数多くある。潮の干満の間で、魚の食いつきが悪くなりだすと、ジュンはすぐ海水浴に切り換えて、親父や兄貴から「カキ回すな!」と叱られることも再三あった。
 大漁の情報を帰宅途中、母親に電話を掛け、その晩は決まって「魚チリ」の段取りになったものだ。当時、姉二人もいたのだが、なぜか女姉妹が魚釣りに同道した記憶がないのが不思議と言えば不思議で、多分大和撫子が生臭い魚の移り香を嫌ったのだろう。
 秋風が吹く頃、二学期が始まるのは当たり前だが、この夏休みの四十日間は、今思えば「最高」の二文字に尽きる遊びの天国の時期を過ごしたのだ。
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開戦の朝

 二学期に入っても一学期の延長だったのだが、師走の声を聞く十二月八日の朝、ジュンは、両親、姉二人と共に朝食中(祖母は朝食を摂らず二食主義だった)、ラジオニュースが「帝国陸海軍部隊は、本日未明、西太平洋に於いて米英と戦闘状態に入れり」と大本営発表を再三再四繰り返し報道し、その時は素直に言って、「身の引き締まる思い」がした。
 
 大連の十二月といえば、すでに寒さも一段と加わり、吐く息も白くなる時期で、手袋と耳かくしが必要品で、それらを身につけての開戦の朝は、取るものも取りあえず学校に行った。朝礼では校長先生が全校生徒を集め、自らは勲章を下げた国民服姿で(校長は当時の軍人の階級でいえば少将であった)「滅私奉公」を声を大にして訓示されたのである。
 戦後、“いや俺は平和主義者だった”などと言っている連中もいるが、その時期は教育の力は恐ろしく百人中九十九人まで、皆その気にさせられたと思う。
 夕方になると大本営発表は次々に「軍艦マーチ」を奏でて、緒戦の大戦果を報道し始めたが、中学一年とはいえ、ジュンは世界情勢の何たるかが分からぬまま、ただ今で言う「格好の良さ」を感じていた。

 次の日の朝の新聞一面には、帝国海軍機動部隊の嚇々たる戦果を紙面一杯に電送写真入りで掲載して、支那事変の記事とは全く違った印象を受けた。この真珠湾の奇襲攻撃が「リメンバー・パールハーバー」として、米国民の敵愾心を一気に高めさせ、個人主義の国民が一致団結したことを思えば、歴史の中のわずか二~三時間足らすの出来事が、人の運命、国の運命に与えた波紋は計り知れないものがある。
 後年、ジュンが米国の小都市のある新聞社を訪問したことがあったが、その新聞社のロビーには、今でも日米開戦当時の真珠湾での米太平洋艦隊の戦艦群や、飛行場周辺の惨状の写真を永久に伝えるべく展示してあったが、日本人としてジュンは決して忘却してはならないと思い続けている。
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戦時色の強化

 昭和十七年の新春を迎える日本人の家庭では、戸別に日の丸の旗を揚げ、家の格にもよるが門松を立てシメ縄を飾り、戦勝に沸く正月を祝ったものである。中国人や朝鮮人、その他の外国人は、今にして思えば複雑な気持ちで見ていたのだろうが、統治者である日本政府の出先機関、関東州庁の目が光っていて、表面上は平静を装っていたのである。
 二月に入って英領のシンガポールがいつ陥落するか、かつての日露戦争の旅順港陥落の話とダブらして、新聞紙上で毎日のように記事が踊る頃、大連の街は、戦場は遠くしかも連戦連勝の至極安泰の地で、よそ事の安逸さが漂っていた。
 しかし、中学での教育は次第に戦時色の強いものとなり、軍部(陸軍)の干渉もあって、配属将校を通じ、ますます軍事教練が厳しくなり、その上敵性語の英語廃止論を唱えだす始末となって来た。その頃、英語の先生でしかも担任教師の沢先生は、敵性語だからこそなお一層英語を習熟して、“聖戦を勝ち抜け!”と言っておられて、ジュンもその通りだと思い、英語は特別力を入れて勉強したものだ。
 後年、澤先生は敬虔なクリスチャンであることが分かって、当時、本当のところはアメリカ、イギリスとの戦争には反対であったはずで、国策に従いつつも平和主義の教育者としての苦哀を知ったのである。

 シンガポールも陥落し、日本内地(特に東京)では、提灯行列をやった頃、ジュンは、一年の総決算の学年末試験が近づいていた。同じ剣道部にいる尊敬すべき先輩から、「俺の成績では内地の二流所の高校しかはいれそうにないが、お前達は剣道で鍛えた根性で一流高校を狙え」と叱咤激励をされたりもしていた。ジュンは本籍が福岡であり、九州には縁があるし先輩が数多く入っている熊本の五高を目指すべく、勉学にいそしむようになっていた。そして学年末の総合成績では四十四番から三十七番に少し上がったのである。
 ようやく、遅い桜の花が咲く頃、二年に進級したわけだが、当然ながら組替えがあり、ジュンは二年一組に入れられたが、担任の先生は漢文の先生で、渾名が「ジェンジェン」という(和歌山出身だったのが全然と言えず訛った発音がアダナになった)古武士調の中年の方だった。十一歳も違う兄が、大連二中で教わっていたことがあったその先生は、授業では象形文字の解説をしたり、論語、孟子がつけ加わったりして、ユニークな教え方をされたりしたが、一年生当時の担任の先生から離れ、特に英語の先生が代わり、寂しい気持ちにさせられた。それにつれて、一時勉学に身が入らず、お陰で一学期の成績はガタ落ちで、初めて母親からコっぴどく叱られたのを憶えている。
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山下兵団と日本軍

 二年生の夏休みになり、相変わらず海水浴や魚釣りに行き出した時期に、たまたま登校日に学校に行って吃驚させられたーーと言うのはシンガポール攻略の山下兵団が、マレー半島から□獲して来た英軍の装甲車や軍用トラックが、校庭一杯に置いてあり、そのタイヤの大きさと分厚さに目を見張ったのだ。
 なるほど、赤道直下の熱帯ではこれぐらいのタイヤが必要なのかと思ったのだが、日本軍のトラックに比し数段大きく、装甲車に至っては月とスッポンの相違があった。
 山下兵団とは、元々関東軍の主力であり、しかも九州の師団と戦時編制した三つの師団(小倉、久留米、熊本だったようだ)からなり、日本陸軍の最強の兵団といわれた。
 当時の大連では、将校が日本人の家庭に分宿し、兵隊達は小学校の講堂や体育館で宿泊していたが、血気の兵隊達はこの戦利品を北満に配し、“返す刀でソ連を叩くのだ”と豪語していた。
 その頃、帝国海軍は何をしていたのか? 南雲艦隊は印度洋に進出して英空母ハーミスを撃沈せしめたことはあったが、真珠湾の奇襲成功を過大評価して、みすみす半年間西南太平洋および印度洋を陸軍の進攻に併せて、アメリカの反攻に備えるのを怠った感があったのだ。その報いが、ミッドウェイ海戦の惨敗につながったのだが、当時、国民にはヒタ隠しにして依然として無敵の帝国陸海軍の報道ばかりを続けていた。
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大連市民生活の変化

 昭和十七年の後半に入った頃から、内地では「国家総力戦」の掛け声とともに、中学生が勤労動員にかり出され始め、さらには、少年戦時兵とか、陸軍の予科練(正式には海軍飛行予科練習生)を受験して、早く戦場へ!!との風潮が拡がりだし、大連の地にもその余波が押し寄せて来だした。
学校では、校長先生の次に合同朝礼の高い壇に上がるのは必ず配属将校となり、今まで予備役の大尉の将校から、現役の少佐殿に変わり、ますます、激しい口調で国粋主義を生徒に吹聴しだした。日本の領土で九十九ヶ年租借の関東州が、特異の存在であったにせよ、関東軍指令部の指図が、こと細かに配属将校に伝達されていたのだ。平和主義者の文官である諸先生方も口をつぐんでしまう状況下に変わって行った。
 戦局が悪くなりつつあり、色々の物資が配給制度となってきた。米と砂糖がその代表格で、大連市民八十万(日本人約二十万、中国人約五十五万、朝鮮人他で五万)のうち、日本人は米、中国人は高梁、粟が統制となり、明らかに人種差別も出だしてきた。ただ、大連港から積み出すべき南方への物資や、逆に満州奥地に送り出す物資が輸送船や貨物列車が足らず、特に砂糖などが真夏には溶けてしまうとかで、市民に特配が相次ぐケースも多かった。
 一番市民生活に影響が出だしたのは、市バスがガソリンで走らなくなり、当時代用燃料といっていたが、木炭ガスでバスのエンスト続出で、予定通り目的地に着かぬことが多くなりだした。
 ちょうどその頃、向かいの吉野さん一家が横浜に転勤になり、ジュンは二つ上の中学四年の兄ちゃんが乗っていた自転車を譲り受け、自転車通学に切り換えた。その吉野さんのお父さんが、日石カルテックスの大連支店支配人だった関係で、戦況の不利をいち早く掴んでいたらしく、「日本の敗色が濃いので、内地へ帰るのだ」と言われた話を、ジュンは母親を介して聞いたような気がするが、そのようなことは禁句で、当時は非国民扱いされるところであった。
 戦場は、大連の地から程遠く、世界地図を拡げても、大連が最も安全地帯と思われていたが、吉野さん一家はやはり国際情勢に詳しかったのだろう。ましてや、石油の商売がガソリン払底では、商売も成り立たなかったはずである。
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海軍への憧憬

 昭和十七年も暮れようとする頃になると、同級生の中、勉強はそこそこだが運動神経のいい奴が、少年戦車兵に合格したとかでクラスから抜けて行ったし、予科練の試験がどうのこうのと一級先輩の連中では話題になっていた。我々も来年にはその学年になるのだと、上級生の話に耳を傾けるようになりだした。
すぐ上の姉が東京の家政学院に行っていたが、その年の夏休みに二ヵ月近くの休暇で帰って来たのを大連港に迎えに行ったときから、弟のジュンに「海兵を受けなさい」と二言目に言うようになった。何でも、五月の陽光の良くなった時期に、海軍の今で言えばPRだったのだろうが、「舳会」と言う会があって、東京周辺の青少年をターゲットにした会合(会場は横須賀だったらしい)に出て、海軍士官の格好良さにひかれていて、海軍熱に憑かれていたのだ。
 正式には、海軍兵学校というのだが、一般には陸軍士官学校を陸士、海軍兵学校を海兵と、当時の受験勉強の参考書にあったので、そのように呼称していたが、後年晴れて入校したとき、「海兵ではない、海軍兵学校と言え」と一号生徒にドヤされたものだ。
 当時、中学二年から優秀な奴の中で、陸軍の幼年学校を受ける者もいた。陸軍の幼年学校や陸軍士官学校の生徒が、休暇で大連に帰って来て市街を闊歩していることもあったが、ジュンはなぜかゴボウ剣を吊った国防色の軍服姿は、“ダサイ”ような感じがしていた。
 それとは反対に、姉の言う海軍さんは真っ白の士官服で短剣を吊っている姿が良く見えることは当然で、男として心の隅にどうせなら女の子にもてる方が良かったのだろう。
 その姉が一冊の本をジュンにプレゼントして読め!!と言うので読み出した本が、岩田豊雄(獅子文六の戦時中の名前)著の「海軍」であった。それは、真珠湾奇襲の特殊潜航艇乗組の岩佐少佐(戦死して二階級特進)がモデルで、鹿児島出身の渾名が「ドンガメ」と言われた少年が、海軍兵学校に学び海軍士官になっていく過程の、特に兵学校生徒時代を主題とした「海軍熱」のカタマリの書だった。
 しかし、その中身の兵学校の訓育の中に、ジュンにはなるほどと頷ける面もあり、姉の言う海軍熱の話を度重ねて聞いているなか、次第に軍国主義の風潮と共に「ヨシ!どうせ受けるなら海兵を!」と言う気になって来たのだった。
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「李香蘭」熱

 その頃、戦時色の濃い中でも、日満親善の橋渡しとして、爆発的に「*1李香蘭」の映画や歌が流行しだし、映画の「百蘭の歌」「支那の夜」「熱砂の誓い」は大変な人気で、歌では「いとしあの星」「百蘭の歌」「夜来香」「何日君再来」を、次々に上の姉が口ずさむような時期があった。そして、姉が保護者となってジュンを映画館に連れて行ったりもしてくれた(当時、小中学生は、保護者の同伴がなければ、単独、あるいは子供達だけでは、すぐ補導された)。
 姉いわく、「李香蘭は、私の一級上で撫順の永安台小学校時代の低学年の頃、一緒に遊んでいて、ジュンも李香蘭には何回か抱かれたこともある」との御宣託を聞かされ、その影響も受けざるをえなかったのである。
 事実、当時、大半の日本人は、李香蘭は中国人と思っていたようで、彗星のごとくデビューして、長谷川一夫(その前は林長二郎と言った)と共演した前述の大陸物三部作が大ヒットしたので、それはそれは一時大変なブームを呼んだ。
 平成元年になって「さよなら李香蘭」という民放のドラマが放映されたが、李香蘭こと山口淑子(元参議院議員、大鷹淑子)の当時の青少年に与えた影響は、是非は別として多大であったことは間違いない。
 ジュンは、上の姉、下の姉の両方の影響を受けながら、二年一学期の成績が悪かったせいもあって、二年の後半は、とにかく「やらねばならぬ」気持ちで、特に不得意な学科がないよう、その頃から、蛍雪時代や、チャート式問題集をひもときだしたのである。
 ジュンの勉強部屋はリノリューム敷きの六畳だったのだが、暖房設備は特になく(家全体は温水暖房設備があり、各室にラジエーターは入っているのだが、節約家の父伸介は、正月と大事なお客があるときと、室温が8℃位にならないと焚かしてくれなかった)、秋から冬にかけての大連は、次第に寒さも加わって来て、穴あき練炭を熱源にしたコタツを足元に置いて、その上に毛布で足腰をくるみ、頭寒足熱の勉強スタイルが常だった。
 実際にはそう言うものの、四六時中勉強ばかりしていたわけではなく、兄や姉が読んでいた全集類を片っ端から読破したが、その中でも山本有三全集は中学時代を通じて好きだったし、「路傍の石」など二度読み返したものも多かった。
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昭和十八年の厳しい戦局

 昭和十八年の新春を迎える頃から、戦局もいよいよ厳しくなって、関東州といえども勤労動員が本格化しだし、最上級生の五年はもちろんのこと、四年生、三年生も「どこどこの工場に行くべし」との指令が出始めた。
 内地では、とっくに軍需工場に学業を擲って、今どき勉強している中学生はほとんどないと聞かされ出して、またの話では年頃の娘で女子挺身隊が編成されたとかの風評が、頻々と聞こえて来だした。
 十七年四月に、ドウリットルのB29による東京空襲があってからは、防空演習が始まったり、「国防婦人会」が本格的に動き出したり、「隣組」制度が強化されて、配給やら集会やらのことで、ジュンの母親にも余計な仕事が増えだしたのもその頃であった。

 また、その時期でも、父伸介はゴルフ狂?だったせいで、満鉄経営の星ヶ浦ゴルフ場(今の星海公園の山手)に日曜ごとに行っていたが、そのうちキャディ(通常は中国人の少年)も徴用とかでいなくなり、ゴルフ場はオープンしているものの、キャディなし、ハウス内の食堂は閉館の戦時体制になってしまった。
 そのため、父伸介はキャディ替わりにジュンを連れて行くケースが多くなりだした。市電で二人でゴルフ場に行き、ロッカー室から道具を取り出して始める。伸介はパートナーは一人もいない状況でもゴルフに興じていた。キャディバッグを担ぐだけでは面白くないので、ジュンは親爺に断って、ドライバーでティーショットを試したりもしたが、ボールはどこへ飛んで行くやらわからず、そのうちにボールがもったいないと止めさせられた。
 伸介は、オフィシャル12、プライベート9の所いわゆるアベレージゴルファーだったが、決して無理な攻め方はせず、スプーンの使い方が今にして思えば抜群にうまかった。
 後年、ジュンもゴルフを正式にやることになるが、その時の意識では「親爺があの位だから親爺を抜いてやる」と意気込んだこともあったが、案に相違して、ジュンはオフィシャル18になったのが精一杯で、いかに野球の飛んで来るボールより、静止しているボールを打つ方が難しいか、イヤッ!と言うほど味わったのは後の話である。

 戦時色が濃くなるにつれ、さすがの大連市も国際港の華やかさが薄れだし、男は背広から国民服へ、女はスカートからモンペ姿と色合いも派手さが消え、国防色と紺が日増しに増えだした。ジュンがまず困ったのは、折角自転車通学になったものの交換タイヤが品薄で手に入りにくくなって来た頃、取り替え時期にぶつかったことである。さらにその頃、親友の谷口(後に一緒に海兵に入校)がマラソン大会に出ることになり、それの伴走を頼まれて大広場~黒石礁折り返しの42.195kmに挑戦しなければならなかったが、途中でパンクしては谷口に申しわけがたたない。普通の手段では手に入らぬので陸軍病院にいるキクエさんのツテでどうにか入手してヤレヤレという一齣もあった。
 その頃から、日用品の石鹸を始め、大半のものがキップ制となり、キクエさんが調達してくれる物資の中で、陸軍用のカンパン(その中の金平糖が旨かった)は重宝した。
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剣道初段

 三年生の一学期ともなれば、そろそろ上級の部類に入るという頃で、特に剣道部では三年からは学校代表で対外試合に出るような筋のいい子には、最上級生が力を入れだして来たのである。ジュンは、学年では強い方だったのだが、学校対抗の試合に出るためには、猛烈なシゴキを受けざるを得なかったのである。お陰で三年一学期末には、武徳会の初段の試験に合格したのが、その後の自信につながった。
 三年になったときも、当然組み替えがあり、今度は三年五組の一員となっていた。担任はうら若い英語の先生だったが、英語の発音や教え方も一年当時の澤先生の比ではなく、三年の一学期、二学期は剣道部のシゴキに耐え、対抗試合に意欲を燃やし出した。
 大連の旧制中学では、一中、二中、三中、大中、工業、商業、実業、と七校が登録され、これの総当たり戦や、勝ち抜き戦(確か敗者復活戦が一回だけあった)があったが、選手は七人制で、先鋒……、副将、大将がきめられ、勝ち進むと一人で、四人、五人と倒していくのが愉快だった。
 ところが、対抗試合の中で、市立の大中はコスイ剣道だったことが、今でも忘れられない。勝つことのみに執心した剣道で、いわゆる「出コテ」狙いのキタナイ戦法であった。
 ジュン達は、正々堂々との「面」を主体とした剣の筋を仕込まれていて、正眼で構える一中の正攻法に対し、身体を半身に構えて、相手が出て来るところで、小手を狙うと言う大中のコマシャクれた戦法に破れたことがあったが、武徳会の八段の師範の先生からは、“あれは「剣の道」ではない”と慰められたものである。
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学徒動員

 三年二学期の後半から、いよいよ我々にも学徒動員が来だした。満鉄の「鉄道工場で働け」と言うもので、無償の勤労奉仕というものだ。当時、航空決戦が呼ばれだした頃ではあったが、満州では、満州飛行機が奉天にあった位で、大連では鉄道工場や化学工場が動員にかり出される主たる工場だったようだ。
 沙河口まで市電に乗って行き、そこから工場まで歩くと言う通学ならぬ通勤と言うことになるのだが、当時、鉄道輸送が国策に沿って大事であり、配属された職場は修繕車工場で、貨物を引っ張る機関車が次々に修繕車として入って来て、それを分解し傷んだ部品を取り替え、ボイラー廻りの石綿等を全部塗り替えるわけだが、満鉄の職場の編成は日本人の職長級の周りに職工が沢山いたので、日本人の中学生が動員で来たと言っても、半分は厄介者であり、かといって中国人労働者の手前もあり、結局、日本人技術員の下に適当に割り振られて、ただ、見よう見まねで遊び半分の手伝い程度であった。
 まして、少国民を万一怪我でもさせたら大変!!と言う意識が職長にはあり、中学生には石綿を塗りつけるときのボイラー全面に石綿を丸めて投げつける雪合戦のような仕事のときが面白く、中学生の出番であった。昼食時には、日本人は給食の麦入り米飯弁当であったが、中国人労働者には粟パンだったので、ジュン達は中国人に米飯をやり、粟パンと交換したりもした。
 時折、パシナ(満鉄自慢の超特急機関車“亜細亜”、パンパ(特急機関車“はと”)が入って来ることもある。それら機関車は、貨物機関車とは違い、数段精巧な構造で、「亜細亜」の動輪は直径2mもあり、当時、世界的にも出色のものであったようだ。燃料は、ただ石炭を焚くだけでなく、微粉炭を吹きつけて火力を増し、蒸気発生量を増大さして出力を上げていた。沙河口ー金州間が機関車の整備ができたら試運転する区間と決められていたが、中学生の子供達はその試運転に乗せて貰うのが最大の愉しみだったのである。内地の血の滲むような航空機工場の動員とは雲泥の差があったのだ。
 リンゴのシーズンになると、名産地である金州で、お土産のリンゴの篭を抱えて帰って来るのが流行りとなり、試運転の機関車の中でリンゴをかじりかじり帰るのが最高だった。
 中学生の子供達には陽気なピクニックだったのだが、日本人の技術員はその行き帰りが勝負だと言っていた。工場に帰り着いたときには、蒸気の洩れる個所に×印が赤チョークで二百個所位つくときもあり、その部分を帰着後すぐに手直ししなければならなかったのである。

 その中に、女学生達も動員されだし、何をやらされているのかは定かではなかったが、隣接する大連機械の工場に神明高女の生徒達が来るようになり、いやでも通勤?の市電には相乗りするようになりだした。小学校当時の同級生が当然乗り合わすこととなり、戦時下とはいえ思春期真っ直中の両性の間では、色々とお互いの噂が出だしたのは物の道理である。
 ジュンは、小学校当時から好きだった子が一人いて、その子の名前は坂本光と言ったが、朝夕顔を合わせるのが楽しみになりだしたのだ。心の中では女々しいと思いながら、ある時は電車を降りてその子の後から追いかけるように早足で歩くと、その子は逃げるようにそれ以上早く歩いて行く。あきらめてゆっくり歩くとその子も足をゆるめる。
そんなことを繰り返していて、時たま、電車の中で一言、二言話す機会もあったのだが、当時は中学生と女学生が長々と話し合うことははばかられ、お互い目と目がそれ以上の語りかけを持ったものだが、そのような淡い恋心を感じて過ごした時期の二~三ヵ月は、またたく間に過ぎて行った。
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陸士・海兵受験熱

 昭和十九年の初春を迎える頃、いよいよ陸士、海兵の受験要項が学校に届いた。何でも陸士は上半身着服の写真でいいが、海兵は上半身裸でパンツ一丁の全身写真がいるとかであった。学年の担任や、配属将校からは、成績のいい子のほとんどが受験するように言われ(身長の足らぬ者と色弱はダメ)、皆その気にさせられた。
 今でもそのときの写真が残っているが、名札は三の五で写っている。実際の受験日は、四月から従来の受験組を編成することに決まり、陸士、海兵を狙う連中が四年四区隊に集められたのである。今までの組呼称とは違い、区隊とは陸士の呼び方で、通称軍人組と言っていた。
 その軍人組の連中には、動員の手心も加えられ、受験勉強をすべき登校日が増やされた。
 光ちゃんの麗しき面影より目の前の受験の方が現実の問題になり出したし、その光ちゃんの兄さんは、陸士に在学中と聞いて、ジュンの気持ちは複雑になりかけた。
 それに輪をかけて毎週陸士、海兵の受験を想定した模擬試験があり、成績が水準以下では配属将校から大目玉を喰らうことになる。陸士の受験は五年生から受ける連中もいたが、志望者は圧倒的に海兵が多かった 。
 その頃には、中学二年当時五高を目指していたジュンの気持ちはどこかへ吹っ飛んでいて、“海兵突破”の四文字を自筆で書いて、山本五十六元帥の写真と並べて勉強机の横に掛けていたのである。
 四年になったときから、下の姉が東京の家政学院を二年で打ち切って帰って来ていたので、毎晩の様に勉強中休みの時間帯には、お茶とお菓子類を持って二階の勉強部屋に運んでくれるようになったが、或る意味では督戦隊の役目で、今で言う教育ママならぬ「教育姉さん」だったのだ。
 そうこうしている中に、配属将校から陸士、海兵の前に軍人組の全員が海軍の「予科練」(正式には海軍予科飛行練習生)を受けるようにとの示達があった。その頃では「航空決戦」という合い言葉で、戦意昂揚を軍部がかき立てていたのだが、若冠十五歳の少年達の身に降りかかって来た現実の問題であった。
 是非を論じるより、軍人組と名付けられたクラスメートの大多数は、「よし!!どうせ戦場に赴くなら格好のよい電撃機で敵艦に突入するのが早道」という考え方が支配し始め、ほとんどの者が志願して受験することになっていった。
 軍人組の大半の者が、奉天、京城経由で釜山まで朝鮮半島を南下し、そこからローカル線に乗り換えて鎮海まで出かけたのだ。鎮海航空隊での試験そのものは、学科はチョロコイもので、大連一中の生徒の学力では問題ではなく、航空適性の方でハネられた者の方が多かった。ジュンの眼は2.0で遠視と言われる位良かったし、アイスホッケーの選手をしていたせいで、テストの回転椅子をグルグル回した後に背中をドッと押さえられて不動の姿勢をとるまでの時間が問題だったのだが、それもかなり早かったので「優秀」と言われた。 受験生の中には、三半規管が悪いのか、試験場の部屋をあっちにフラフラ、こっちにフラフラして、最後にはガラス戸に頭をぶっつけて血まみれになった者もいた。
 鎮海の航空隊での印象は、受験生の世話をする上等兵曹が威張り散らし、年端も行かぬ中学生を鉄拳でドヤす場面もあったが、下駄履きの水上機が訓練か哨戒を終えてであろうが、鎮海湾に着水するのを見て下駄履きのでもこのくらいだから、航空母艦に載せられた艦載機は、もっと格好の良い者と受験生の間では思っていたのだ。
 日露戦争の日本海大海戦の折、日本艦隊が待機していたのがこの鎮海湾で、その鎮海も昭和に入ってからは軍港ではなく要港だったものの、戦時中は気合いが入った海軍の関門海峡を守るべき水上機の基地だったのだ。夕日が沈む鎮海湾の上空で零戦の機影がダイダイ色に輝いていた姿が今でも忘れ得ぬ光景として、眼に焼き付いている。
 陸士の試験が七月、海兵の試験が八月と納部日程が決まった頃から受験勉強も一段と熱が入りだしたが、それぞれ受験場所は母校の講堂であると聞いて雰囲気的な不安はなく、あとはどんな問題が出るかであった。ジュンは陸軍の試験管の気持ち、海軍の試験管の気持ちを考えヤマを張ることに一時熱中してみた。
 陸士の試験日になって、関東軍からの派遣と思われる将校達に母校の配属将校まで加わっての試験が始まったが、上級生の五年生と肩を並べての受験風景は、一種異様な雰囲気で、二中、三中……の生徒も多数おり、競争心は盛り上がった。
 ジュンは答案用紙を手にして、一通り問題に目を通して自分のヤマをかけたのが一つもないのに気付いたが、試験問題としては四年の一学期では習っていない問題もあった。
 受験科目の中で最も難しかったのが数学だったような記憶があるが、全科目を終えて最終日に口頭試問のとき、ヒゲを蓄えた中佐殿に色々と聞かれたが、「陸士と海兵の両方通ったらどちらを選ぶ?」と聞かれ、即座に「海兵」と返事をするヘマをやった。鎮海の航空隊での印象と姉の海軍熱がそう言わしめたのだろうが、中佐殿が気分をこわしたことは請け合いであったのだ。
 その中、合格発表がありジュンは見事に不合格であった。一中からは五年生の五名と四年生の二名計七名が陸士合格と校門横の掲示板に張り出されていたのが、受験後二週間が経ってからであった。
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海兵試験

 ジュンは、八月の始めの海兵の受験を控えて陸士不合格を意に介さず、本命の海兵に照準を合わせていたので、今度はヤマかけにもなお一層の頭を使った。いずれも試験範囲と言うものはなく、中学三年の実力程度あるだけで、何もかも頭の中にインプットというわけにはいかない。陸士のときの外れを教訓?に海軍の試験管の狙い目を、各科毎に蛍雪時代やチャート式参考書の問題傾向を自分なりに組み立てて行った。
 その中、十九年夏の休暇で試験日の一週間程前に海兵の生徒達が大連の街に、三々五々歩いているのがいやでも目に灼き付いた。剣道部の二級先輩の生徒が母校を訪れ、先輩の話を聞き、吊っている短剣を見せてくれとセガンだりしたが、海軍の短剣は“精々、リンゴの皮剥きぐらいにしか適しない”と言うことで抜いて見せてはくれなかった。本当の所は、中身を見せて後輩達がイメージダウンしないように先輩は気配りをしたのだろう。
 純白で短衣の七つボタンの軍服で、先輩達が歩く姿と、今から受験しようとする意識とが頭の中で交錯する数日間を経て、いよいよ試験日が遂にやって来た。
 陸士は幼年学校からの持ち上がりで、募集人員は少なかったが、海兵は幼年学校らしきものがないので、陸士の募集人員の三倍強と聞かされていたのだが、何と聞き及んだところでは、全国で十万人は受けるということで、その中から合格者は三千人とのことである。計算上、競争率は33.3倍と言うことになる。そう思ってしますと、二年の終わり頃から海軍熱になりかけていた気持ちもグラついて来る思いであったが、当日の朝になると“失敗してもともと”と言う気がして来て腹もすわって来た。
 試験は四日間ぶっ通しで行われ、
  第一日 英語、数学、 第二日 国漢、地歴
  第三日 物理、化学、 第四日 口頭試問・身体検査
で試験当日は、夕方には受験番号を書いたボードに、当日の不合格者の番号が黒々と墨で消されると言うサバイバル方式であった。ジュンは、一度も夕方見に行かず、下の姉が夕方勤めもソコソコに一中の校門前で見てくれて電話をして貰うこととし、次の日の科目に備えていたが、幸い!一日目から三日目まで生き延びたのである。
 第四日目の口頭試問の前にボードを見に行ったとき、何と自分の左右の受験番号は殆どクログロと塗り潰されていて、すでに八割近くが振り落とされていたのだ。軍人組の中でも、模擬試験でジュンよりいつも上位の成績だった者も苦杯を舐め、涙を飲んだわけだが、常時二~三番を争っていた男までが脱落していたのには、不可思議にさえ思った。
 口頭試問は、受験番号の若い順で、生き残りが次々に受けたが、ジュンは初めの方であった。陸士のときの経験から、何を聞かされても旨く受け答えしようと口頭試問室に入ったが、真っ白の軍服を着た将校さんがずらりと並び、その中でも兵科将校の少佐の肩章をつけた先任試験官と文官風の中佐(造艦技術では海軍屈指の方)が、交互にジュンに質問を浴びせて来た。試問の中味は、家族の事やら海兵を志望した理由等で、あまりかたい内容ではなかったが、「士族の出」だなとか、いちいち念を押すようなやりとりのあと、予科練の合格も決まっていたので、「海兵に合格したらどちらを選ぶ」と尋ねられたときは、即座に「将校生徒の道を選ぶ」と力んで返事をしたのである。
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海兵合格

 ハードなスケジュールの受験シリーズを終えてその夏は、動員の関係で夏休みらしものはなかったが、ジュンの気持ちも何かの一種の虚脱感に似た状態にあった。
 九月のある日、動員から帰ると母親のクラが一通の電報を示して、「おめでとう」と言った。電文には“「カイヘイゴウカク」イインチョウ”とだけであったが、母の気持ち(末っ子のオトンボ息子を海軍にとられる)とは裏腹に、その日の夕食は姉達がこしらえてくれた祝いの膳で、父伸介を始めとして一家で祝杯(ワインだが……)をあげた。
 小さい頃から可愛がってくれた隣のオジさん(のちにジュンが結婚式を挙げたときの仲人ー浅野物産の大連支店長)や向かいのオバさんなどから祝いの物が届くやらで、ラジオニュースが戦局の重大さを報じていたのとは正反対に、華やいだ一晩となったのである。これはあとで知ったことだが、父伸介も若き頃、海兵を福岡の修献館から受けたが、色弱で不合格となったとかで、父は息子がそのカタキ?をとったと喜んでいたのだそうだ。明治男特有の頑固で寡黙な父、明治女特有の辛抱強く良妻賢母型の母、それぞれの気持ちが奈辺にあるかはジュンに分かろうはずもなかったが、理屈抜きでそのときは嬉しさが一入だったのである。
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海洋訓練

 次の週には、早速旅順要港司令部から海兵合格者に(一中では二十名程いたが)一週間程海洋訓練を実施する旨の通知があった。
 何でも関東州では二十五名と奉天とか新京からの合格者と合わせて三十名程であったが、海軍省からの特別の計らいがあったのか、それとも旅順要港司令官の独断だったのかは不明だったが、学徒動員で引っ張られている入校予定者を、予め訓練しておくという趣旨だったようだ。お蔭で旅順の海兵団で、手旗訓練や通信の“トツートツー”をやらされたことで、ジュン達が正式に兵学校に入校したときは大いに助かったのだった。
 入校して同分隊の者に聞いて初めて、関東州、満州の者達だけがそのような訓練を受けたのだと分かった。内地では、航空機工場を初め軍需工場が人手不足で、その余裕すらなかったことが判明した。
 とにかく、中学生の制服の左胸のポケットの上に、桜に錨のマークを配したワッペンみたいなものをつけて(海軍省の思惑は、それをつけた者に自覚を与る目的)、毎日、登校やら動員先に行く日々が、十月から翌月の三月まで続き、スレ違いの女学校を初めいわゆる階層の人々からもチヤホヤされて、“これではいかん”と自制しながらも、いい気分であったことは否定できなかった。
 十九年の暮れには、兵学校から「入校予定者心待ち」なるものが両親経由本人宛に来たりして、特に入校前の男女交際にはウルサク書いてあったが、ジュンは光ちゃんに淡い恋心らしきものがあった以外は、その気もなかったのである。しかし、同僚の二十名の中には豪の者もいたようで、合格通知を受けてからすぐに、行く先は戦場と割り切り、童貞を捨てに走った者も何人かいたが、その連中は戦後立派な医者になった者が多い。
 十一月半ば頃に、ジュンは風邪をこじらせて気管支炎を患ったとき、担任の坂本先生(アダ名はサカポンと言っていた数学の教師)が、道路の凍てついた日に、わざわざ自宅まで見舞いに来てくれたことが、いまだに忘れ得ぬが、そうこうするうちに二十年の正月も足早やに過ぎ去り、桜の蕾も膨らむ時期が訪れたのである。
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*1李香蘭 山口淑子、本名:大鷹淑子。戦前の中国(中華民國)と満州國、日本、そして戦後の香港で李香蘭(り・こうらん、リー・シャンラン、Lǐ Xiānglán)の名で映画、歌などで活躍した。日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍。後に参議院議員をも務めた。