昭和二十年三月三十日、大連市早苗町一三四番地の懐かしの我が家を出て、父方の祖母(八十歳を越していたので駅までは来れなかった)が、玄関のポーチ横の塀にもたれながら見送ってくれるのに手を振って別れを告げ、心の中では祖母にはこれが今生の別れと思いつつ、大連駅へ向かった。
大連駅頭に二十五名(一中二十一名、二・三中四名)が、一路広島県の江田島に渡るべく集合した。山岸という一中の首席がリーダーとなり(彼は後年三高東大を経て興業銀行に入行した)、海洋訓練で受けた通りの整列や受け答えで、多勢の見送りの方々に挨拶をして懐かしの大連を後にしたのである。この年齢まで育んでくれた両親を初め、多数の知人、友人と別れる一抹の寂しさはあったものの、それはオクビにも出せない。
ジュンは“光ちゃん”の面影だけが心残りだったが、人垣から離れた駅構内の柱の蔭に“光ちゃん”の姿を認め、一瞬行進の足並みを乱したが、それが光ちゃんとの最後の別れになったのである。戦後、昭和二十二年の夏近くに、義姉の神明高女の名簿を見た際、熊本に引き揚げていたのは確認していたが、次の名簿を見て愕然とした。“美人薄命”とは良く言ったもので、その名簿には既に故人となっていたのである。
大連を発ち奉天で乗り換えのとき、新京一中や奉天一中の合格者と合流する待ち時間の間に、満鉄主催による壮行会らしきものをして貰って激励を受けた後、一路鴨緑江を越え、朝鮮半島を南下した。当時の鉄道の幹線は、大連ー哈爾濱(ハルピン)間と北京ー釜山(フザン)間が主幹線で奉天で交差していた。春の木々が芽を吹く春風の漂うこの時期、朝鮮人と乗り合わせる車両の中では、ニンニクとトウガラシの混じった一種独特のニオイが充満し、その匂いにいささか辟易しながら、釜山に辿り着いた。
アメリカの潜水艦が出没するため、出航時間は真夜中とのことであった。その当時は大連から日満航路が一番いいのだが、戦局が日々不利になって来て、それらの客船も輸送船に続々に挑発されて日満航路は運航できなくなり、小さな船の関釜連絡船で内地に行くしか方法がなくなった。それすら敵潜水艦の攻撃が気になる時期に至っていたのである。通商破壊と言うことで、アメリカは輸送船を狙っていたのだが、特に内地と満州、朝鮮を結ぶ朝鮮海峡は重要ルートだった。
四月一日朝早く博多港についたが、博多駅までの交通手段が分からず、重いトランクを提げて築港から博多駅まで歩いて行った。若かったので平気だったのだが、終戦後、伯父の家に復員して博多近くの母の里に落ち着いてから、その歩いた経路を市電で走ってみて、その時によく歩いたものだと懐古したのは後の話だ。博多駅から一路広島まで行き、呉線に乗り換えて呉市で一泊したのだが、満州や朝鮮の鉄道は広軌、内地は狭軌であったので日本内地の客車や貨車がマッチ箱に思えたのは偽らざる印象であった。
呉では泊まるには泊まったのだが、内地の食糧事情が予想以上に逼迫していて、宿の女将が「夕食は若い将校生徒さんに食べさせるべきお米すらない」とすまなさそうであった。
次の朝、入校者心得に従って三十名が持っていた軍足に入れたお米、乾パン類や缶詰を全部座敷の中央に山積みにして宿に提供したのだが、宿の女将はこれだけの食糧を頂けば「宿銭はいらない」と言う。生徒心得がやらかしたことだが、正規の宿銭は払うとスッタモンダの末支払いを済ませ、宿の女将や女中達に感謝されつつ、再び呉線で少しバックして吉浦の駅頭に立った。
呉軍港の一帯は、車窓から見えぬよう板塀で遮断されていたのが異様な感じではあったが、海軍に籍をおけば何でも見られると思い江田島が見えるところまでようやく辿り着き、一種の感慨に耽ったのが四月三日の直前であった。
その頃、帝国海軍は“天一号作戦”と称して、戦艦「大和」に援護機なしでの出動命令を出し、水上特攻を策して沖縄戦線に突入する寸前だったことなど露知らずの入校予定者三十名が、迎えのランチ艇を吉浦の船着き場で待っていたのである。
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陽光が燦々と降り注ぐ小用港に、はるばる満州からやって来た三十名の弱冠十六歳の少年達がランチ艇から下り立ち、初めて江田島の地に第一歩を印した。誰の胸にもそれぞれの感慨を秘め、出迎えの教員(上等兵曹)に引率されて小用港から徒歩で兵学校へ向かった。
途中、ちょうど桜が満開でいかにも前途有望の少年達を祝福するかのようにあちこちに咲いていたが、一層大きな桜の木が並んでいるところが兵学校の裏門であった。(兵学校の正門は江田内の海だそうで、表桟橋が玄関だった)。
いまだ正式な兵学校の生徒ではなく、入校予定者としての身分ながら、集団で全国各地から来る少年達を受け入れて、その面倒は教員と称する兵曹級が担当していた。ちょうど「神武天皇祭」に当たっていたため、その夜の夕食にはおかずは当時娑婆では望むべくもない豚肉がたっぷり入ったシチューがアルミ食器に山盛り一杯あったのには驚かされた。あるところにはあるものだと思いながら、食べ盛りの少年達は、皆ペロリと平らげたのが江田島第一日の思い出だ。
入校式は四月十日ということだったが、次の日から官給の軍服やら下着類に至るまで支給され、普段には当時第三種軍装といっていたが、国防色の簡易服で(略装ともいう)で過ごすように言われた。
ジュンは、今まで着たり持っていた私物を私物置き場と称するところに格納の際、特別に軍足二十足を忍ばせて持っていたのがあとあと役に立った。陸軍も海軍も軍足は共通で仮令官級品としても有り余るほどはくれないはずだからと、キクエさんのアドバイスで大連を出発する数日前にカバンに入れてくれたものだったが、二十足の恩恵は、被服点検のときの員数確認で、同じ分隊の同僚の人助けをしたのだ。
海軍の軍服は、冬は濃紺(第一種軍装)、夏は真っ白(第二種軍装)と相場は決まっていて岩田豊雄著「海軍」の中に出てくる生徒の普段着は「白の事業服」とあったが、第三種軍装と称する国防色の簡易服に変わっていたとは、イメージダウンも甚だしかった。
その中、割り振られた分隊が決まり「オ508」と言われたジュンは分校行きと決定して、オとは大原分校と聞かされ、さらに「ガクッ」と来た。ちなみに「エ」が本校、「イ」が岩国分校で、岩国に行く連中はもっと気の毒で、折角江田島での生徒生活を夢見た少年達は話が違うと思ったはずだ。
大原分校とは、江田内の北寄りの海辺にあって本校まで歩いて十五分位のところではあったが、木造の校舎で小説「海軍」に出て来る本校の赤れんが造りの東生徒館や、白亜の西生徒館とは「月とスッポン」の違いがあり、さらにがっかりであった。
入校式前からそれぞれの分隊に所属し、三号生徒としての受け入れ準備が着々と進んでいた。*1一号生徒、二号生徒とそれぞれ面倒見のいい対番生徒がつき、ジュンの対番一号は四国出身の岩井誠一郎と紹介されたが、初対面のときにいろいろ聞かれた中で、身上調査内容をその対番生徒が良く知りつくしていたのにはびっくりさせられた。親兄弟のことから、小中学校時代のことまで良く調べ抜いたと思うが、予科練の航空適性試験の成績は海軍の中でのことで回って来ているのは当然としても、小学校の頃のスポーツ選手当時のことを事細かに知っていた。
さすが「海軍」と思ったが、入校式までの一・二号生徒は実に親切で、日常生活でのベッドの寝方とか、被服の着け方等々、兵学校生活のABCを懇切丁寧に教えてくれた。
いよいよ、入校式の当日の朝となり、濃紺の第一種軍装に着替え、憧れの短剣を対番の二号生徒から借りて(輸送列車が空襲にあい、三号用の短剣は届いていなかった)大原分校八部全員(八十分隊約千二百名)が練兵場に集合、本校まで歩いて大講堂の入校式に赴いた。
海軍中将の東田健男校長から「○○生徒以下三千百名、海軍兵学校生徒を命ず」という簡単明瞭な伝達があり、ジュンは兵学校七七期生の一員となったのである。入校式のあと教育参考館の東郷元帥の遺髪のある前に整列、参拝したあと、八方園神社に行き宮城遥拝の次に各自それぞれ両親の住む方角に方位盤の示す方向に一礼し、身も心も将校生徒になったことを報告したのだ。
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昼過ぎに大原分校に帰り、自分の分隊に戻ったとたん一号生徒の態度がガラリと変わっていた。まず自習室の前方に一列に並べと言われ、姓名申告をせよと言うのだ。一・二号の最初に自己紹介の手本を示し、たとえば二号生徒が「軍歌係補佐松崎大和」という風に三号は「出身中学校名、姓名」を名乗るように言われた。
十八名の三号は先任順(成績順)に大声で気合いを入れてやれと言われ、オ508分隊の先任三号は佐賀出身の男で吉田と言ったが、「佐賀県立佐賀中学校……」と始めた。「聞こえん」「蚊が鳴いとる」「やり直せ」と四度も五度もやり直しだ。次に二席の男がこれは京城の出身の者だったが、「官立郡山中学校……」と申告し始めたが、これも三度程やり直しをさせられた。次はジュンの番だったが、姓名申告とは要は腹の底から声を出すのだと前の二人の状況から判断し、“詩吟調でやるべし”と臍(ほぞ)を固めて、「官立大連第一中学校、安西ジュン」と一語一語区切りをつけてやったら、一発で「良し!」と来た。小さい頃から詩吟を習っていたのが良かったのだろう。
四番以降も次々に申告して行ったが、「やり直せ」が多く、「貴様、女か!」と突き飛ばされる者もいて、十八人全員が済む頃には自習室内は異様な雰囲気に包まれた。その中、一号の先任大家裕生徒(東京府立一中出身だった)の伍長が、おもむろに「貴様達は本日将校生徒は拝命したにも拘わらず娑婆気満々で一つも気合いが入っとらん、これから貴様達の根性を叩き直してやるから、股を開き、歯を食いしばれ!!」と言ったかと思うと三号生徒の吉田から、両手で往復の鉄拳(ゲンコツ)制裁が始まった。伍長、伍長補と次々に下級生を殴ることに快感を感じる一号がこれに参加、新参の三号は殴られて、「フラフラするな!」と、殴られ方の悪い奴?はさらに余分に殴られるという始末で、ジュンは「何でこんなことをしなければならぬのか」と思いながら、耳を澄ますと、両隣の506、510分隊でも同じことが行われているのに気が付いた。
これが兵学校の入校式当日の洗礼であることは小説「海軍」で予備知識はあったものの、実際に洗礼を受けて無性に腹が立っていた。ただ救いは対番の岩井生徒は殴る一号のメンバーには入っておらず、終戦となりジュンが江田島を去るまで岩井生徒が三号を殴るのを見たことがなかった。彼は鉄拳制裁に反対で自ら実践し、前任の井上成美校長(海軍最後の大将で兵学校校長当時は中将)の教えを守っていたのだと知ったのである。
当時の兵学校では分隊監事(普通は大尉級の兵科将校で兵学校卒業時の成績も優秀な将校)や、その上の生徒指導の生徒隊監事(中佐級)、教頭(大佐級)からは、鉄拳は禁止と言うことになっていたが、それは建て前で、兵学校の前身である築地の海軍兵学校寮時代から、この伝統は続いていたのである。元々海軍は、英国海軍から探艦技術などを習っている。紳士の国「英国」で鉄拳が奨励されたはずはなく(もっともムチはあったようだが……)恐らく薩摩隼人が海軍に多くいたので、武士階級の悪弊が伝わったのだろう。
そういう雰囲気の中で対番の岩井生徒は、ジュンはもちろん、他の三号生徒も一度も殴らず、一号生徒になって二・三号時代に殴られた鬱憤を晴らす行動をただの一度もとらなかった。それ以上に岩井生徒との会話の際は、最後の一言は常に兵学校では成績を一つでも上げるよう「学業にこそ命を賭けよ!!」と言うアドバイスであった。将に誠一郎と名の通りの先輩が対番であった事に感謝したものである。
兵学校入校第一日のその夜の自習室では、鉄拳の嵐のあとで、伝統の「五省」が自習終了後におごそかな伍長の声で始められた。
五省とは、五つの反省をせよと言うことで、毎日の思考、行動に対し、自らの反省を求めるものだが、総てが満点だったと思う日は一日としてジュンにはなかった。
「五省」
一. 至誠に悖るなかりしか
一. 言行に恥ずるなかりしか
一. 気力に欠くるなかりしか
一. 努力に憾みなかりしか
一. 無精に亙るなかりしか
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入校第二日から二週間近くは入校教育期間として学課は一切なく、体育、短艇訓練、陸戦訓練、手旗信号訓練等々、身体を動かすことばかりであった。奇異に感じたのは陸戦訓練を海軍でもやることであった。海軍にも陸戦隊はあるからだと納得したものの「陸軍ではあるまいし」と思っていた。
訓練の単位は、分隊で十八名だけのときと、502・504……と偶数分隊計九十名、さらに五部全部で百八十名、それ以上では奇数部二つが合同で一部五部全体で三百六十名という風に海軍は、奇数、偶数とか対番、対部とかの組み合せを旨く考えていた。
陸戦訓練は人数も多く、一部五部三百六十名であったが、101分隊と一緒であったせいで、背も高く体格も立派な三号が隣りだった。一緒に匍匐前進していた三号のネームプレートを見て、吃驚した。「邦昭王」と書いてあったのである。皇族の久迩宮邦昭王が同期生で入校されたとは知っていたが、まさか我々と一緒に這いずり回っているとは夢にも思わなかった。
あとで聞いたのであるが、皇族の扱いは、寝室と浴室が別である以外は、まったく他の三号と同じ場所、同じ訓練を受けていたとのことで、当然本校に在籍とばかり思っていたのに大原分校在籍とは意外だったのである。
訓練の中で、手旗信号や電信(いわゆるトツートツー)は、旅順要港で手ほどきを受けていたせいで、ジュンは同僚の三号よりはずっと旨かったし早かった。
とにかく、海軍は五分前の精神が徹底していて、入校教育期間中の朝昼晩の食事時には、食堂前で電信受信用紙をくっつけた枝切れ(紙挟みのようなもの)を持って整列し、定刻までは宛二号、宛一号と言う風にトツートツーがスピーカーから流れて来る仕掛けである。
「五分前の五分前」週番生徒が追い回すし、校内ではブラブラ歩きはできず、自習室、寝室付近以外はすべて駆け足である。
スケジュールはいっぱい詰まっていて、課業時間帯(三号は訓練)以外は一号生徒の目が光っている。朝起きて夜寝るまで、コマネズミみたいに走り回り追い回されての一日だ。食事時の定刻にはラッパが、「兵学校の食事は人参牛蒡、たまには冷飯ライスカレー」とラウドスピーカーから鳴るが、海軍ではラッパのラストサウンドが行動開始と決められていて、その瞬間から皆が一斉に動く。
各分隊それぞれ一号・二号・三号が自分のテーブル前で着席し、当番将校監事の「食事に掛かれ」の指示があるまで「不動の姿勢」で待つのだ。見方によっては「エサを貰う犬」の姿である。
ようやく「食事に掛かれ」の声で「いただきマァース」と食事にありつけるわけだが、兵学校の食事は、朝は食パン半斤に味噌汁、バターまたはジャム、昼は軽食のオムライスやハヤシライス系統、夜は一汁二菜が通常だが、不思議と水曜日の夕食にはヨーカンとか缶詰のアンミツ、ミカンのようなデザートがついていた。
あとから聞いたのでは、平時のときの兵学校では、酒保があって特に水曜日は同じ酒保(養浩館と言っていたそうだ)でも品数が豊富だったようで、戦時の窮乏状態に至り酒保は廃止となったがその名残りがあったようだ。
食事が終わりに近づき、生徒隊監事が「開け」と言うと、三号は呑気にしてはいられない。上級生より早く飛び出して隊務をしなければならなかったし、わずかな時間で自分の身の回りのことや、用便も足しておかねばならないのだ。
尾篭な話だが、食後の用便に便所に一目散に走って行かぬと人伍に落ちることとなり、順番待ちでロスタイムが出る羽目となる。ジュンは短距離には自信があったので、いち早くトイレに飛び込むのだが、同分隊でも足の遅い奴は絶えず人の後塵を拝することになるのだった。
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三号が入校教育期間中の最初の土曜日の午後、大掃除のあとに一号・二号合同の棒倒しを見学させられた。そのもの凄い格闘を見て、これは「面白い」と思う一方、「よし!俺達も仲間に入る日がもうすぐ来る」という思いに駆られた。
五部十分隊の一号・二号が攻撃隊と防御隊に分かれ相手の一部と白旗・赤旗を棒の先に翻して対峙し、ラッパと「ワー」と言う掛け声と共に、攻撃隊は相手陣営になぐり込み、攻撃隊がすれ違う瞬間から阿修羅のごとき様相を呈するわけだ。
攻撃隊は一号生徒で、特に身軽でスバシっこい二号が有志練習で抜擢されれば攻撃隊に入れたらしいが、このときばかりは二号が一号に踊りかかっても誰も文句を言わない。ひたすら相手の棒に一秒でも早く辿りついて倒すのが目的なので、肉弾戦そのものである。
防御陣は、まず棒を立て二号生徒のドカベン的な生徒二人が根本をしっかり抱き、それを外側になるほど二号のガッチリした体格の者が腕組みして十重二十重に守るのである。従って防御陣の二号は腕組みしているので手は使えないが、攻撃して来る相手の一号を足で蹴ることはできる。また、二号が腕組みして十重二十重の輪の肩の上に載った防御陣の一号の猛者達が、相手の攻撃隊の者を殴る、蹴る、はては組み付いて離れぬというような場面があちこちで展開されるのである。
何分か経つと、そのうちに双方攻撃隊の一号のハシコイ奴がなんとか防御陣をかい潜って棒にたどりつき、さらに何人かが棒にしがみつくにつれて、ようやく棒が傾き出し、倒れ始めた角度を見て審判の教官が合図をすると、終了のラッパが鳴り競技は終わりとなる。
引き上げの光景がこれまた凄いことになっていて、足をさすりさすり戻る者、鼻血を出している者、脳震盪を起こしたのか立ち上がれない者と、とにかく両陣営共倒れている者を助けて引き揚げて行く姿は、気の弱い者には毒である。見学している三号も、気の強い者は「これは面白い」と思い、気の弱い者は「大変なことをするところに来た」と感じたはずだ。
棒倒しは兵学校の伝統で、これにより将校生徒魂を養うためとは言え、平時のときこの棒倒しを見学した外国の武官は「日本人はヤバン」と評したこともあったようだが、短時間で多勢が参加し決着がつく競技は他に類がないとのことであった。
事故防止には相当気をつかい、棒倒し前に手足の爪は必ず切っておくことや、服装は上は体操服、下は略装のズボンだが、そのズボンのバンドの変わりに「くくり紐」と称していたが真田紐で結んで下がらぬようにしていた。金気のものは一切身につけないで競技に臨むわけで、足は素足のままであり徒手空拳と言った出で立ちで戦うのだった。
それでもひどいときには、腕を脱臼する者や、膝関節を傷める者も出て、診療所に運ばれる者が続出することもあった。
棒倒しが終わるとバス(風呂)に入るわけだが、バスの入り方も一号は偉そうに入って、二号・三号は小さくなって入らねばならない。一号生徒はバスの中で、その日の手柄話を楽しそうに二号・三号の耳に聞こえよがしに大声で喋っているが、特に三号は何かのヒョウシで「待て!」がかかるのを恐れてウカウカできないのである。
虫の居所が悪い一号が大声で「待て!」と言ったら、二・三号は全員フリチンで不動の姿勢をとらねばならない。たとえ、男同士とはいえ、フリチンでつっ立っている様子は格好のいいものではない。日頃、清潔にせよと言って「貴様の耳の裏側に垢が溜まっている」とどやされても、ゆっくり身体を洗うような状態に一号そのものがさせてくれない。
一にも二にも、兵学校の中ではスバシっこくないと、次々に連鎖反応で一号生徒の目に留まると「待て!」「やり直せ」が来るので心の休まることがなかったのだ。
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次の日の日曜日は、一号・二号は外出許可日である。入校教育中の三号は、分隊点検整列のあと嬉しそうに弁当と酒保(オヤツ)を真っ黒な風呂敷に包んで外出して行く上級生を見送る立場である。
江田島の民家をそれぞれクラブと称して開放し、畳の上で「生徒さん」に家庭的な雰囲気を提供していたのは昭和十九年の春頃までで、戦局の悪化と物資の不足から廃止になってからは、外出と言っても一号・二号は古鷹山に登るとか、美人のお嬢さんがいると伝えられる津久茂寺(江田島の北西にある岬の一角)を尋ねるとか、本校の教育参考館、八方園神社巡りをするぐらいのことである。それでも三号達は羨ましい気持ちでいたことは確かで、一・二号の出て行ったあとには、種々の訓練が待ち受けていた。教員の中にはくだけた者もいて、さすがに日曜日の訓練ともなると傍目にはいかにも訓練の中味の説明でもしている風にして雑談をしてくれたりもした。
教員にとっても教官(特に兵科将校)の目が厳しく光っていたことは間違いないのだが、このようなことはちょうど三号にとっては良い息抜きになったのである。
兵学校の教員となっている兵曹級は、海軍の中でもそれぞれの道にかけては達人の域の者ばかりが集まって来ており、オリンピックの水泳の選手だったり、海軍一の射撃の名手だったりの連中であった。教員の目から見れば、年端も行かぬ十六歳の坊や達に命令系の言葉は使えず、「生徒は○○する」と動詞の終止形で表現するのだ。初めは奇妙に感じもしたが、慣れるに従い当たり前になって来るから不思議である。
その日の夕暮れになると定刻三十分位前から大半の一・二号が戻ってきて、帰校点検を受けたあと、一・二・三号勢揃いの軍歌演習となる。分校全生徒四千人が一斉に行進しながら歌う軍歌が江田内にこだまするのは、それはそれは聞き惚れる一時であり、戦後ジュンが江田島を訪れたとき、老漁師から今でも耳の奥底には残っていると言われて懐かしく感じたものだ。
その当時は無我夢中で、軍歌集を右手で眼の位置より高く揚げ、「いかに強風吹きまくもいかに怒濤は逆巻くも……」と一節一節をあらん限りの声で全員が歌うのだから、勇ましく素晴らしいハーモニーを醸し出したのだろう。故老の誉め言葉もあながち誇張ではないはずだ。ジュンは数多くの軍歌の中でもこの「いかに強風」が歌詞もメロディーも好きで、気に入っていた。
その日の自習中休みにとんでもないことが起こった。今まで入校以来一号が三号を修正すると言うことが当然とされていたのが、その夜は二号生徒が自習室の前に全員整列させられたのである。一号曰く、「本日の外出に際しての二号の行状は……」云々に続き「娑婆気満々……」に至るくだりで、全員修正が行われた。
ジュンは一つのパターンを見い出して“兵学校では、何か心の弛みが出るときは必ず一号が下級生を殴って修正するのだな”と感じ、三号が外出許可になる日の帰校後には、今夜の何倍もの修正が待っているとの予感を持った。
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入校教育も二週目に入ると一号生徒の締め付けがさらに厳しくなり、“起床動作”の一分三十秒以内がそれぞれの分隊で始まりだした。寝室では生徒は皆それぞれのシングルベッドで寝るのだが、「五省」を済まして「巡検」までの一時の余裕時間帯で「用意寝ろ!」「用意起きろ!」の起床動作の繰り返しが始まった。
第三種軍装から真っ白な寝巻に着替え毛布にくるまるまでであるが、脱いだ軍装や下衣、靴、靴下に至るまでキチンと畳み、揃えておかねばならない。特に訓練に訓練で明け暮れ、海軍では一時も靴を脱ぐことがないせいで、四月の半ばと言っても足がむれていて、軍足がそろそろ臭う時期であり、今まで穿いていた靴下を何回も脱いだり穿いたりするのにはまず閉口したし、折角畳んだつもりの下着がチェストに平行直角でないとドヤされたり、とにかく一分三十秒には到底入らぬ。
その中に伍長が「三号は何をモタモタしてるか、一度二号生徒に手本を示して貰うからよーく見て置け!!」と言い出し、二号生徒を「用意寝ろ!」とまず寝かせておき、一拍おいてこんどは「用意起きろ!」と号令した。一斉に動き出した二号生徒は、伍長が一分を過ぎる頃から一分五秒、十秒……一分二十秒、二十五秒と言う間に全員完了して、順々に自分の姓名を申告しながら寝室の片隅に整列し終わったのである。
同じ人間でもこれほど違うことに三号は皆驚異を感じたものだが、これもいろいろと手法が加わっていることを次の日の起床動作では対番の二号に教わって要領が分かって来た。下着の中でもアーマー(軍艦の艦橋部を防御している厚い鉄板のこと)と称する厚手の下着は、第二ボタンの所をあらかじめ括りつけることや、靴紐の結びの固さ加減、真っ白な海軍毛布には必ずエビ茶色の線が入っているのだが、それを目印に畳む要領などを教えて貰うと寸秒を争うときの無駄な時間が短縮できる道理である。
軍艦生活では、いったん緩急のとき「戦闘配置に付け」となると、夜の夜中の暗がりでも、素早く起床動作ができなければならないのだ。
一晩一晩ごとに三号も始めの頃とは見違えるように早くなって来ると共に逞しくもなって来る、そしてすべてが終わり「就寝ラッパ」が鳴って「巡検!」の声がかかると、当直監事の将校と週番生徒が廻ってくるのだが、巡検の終わるまで生徒は毛布にくるまって寝たままでの不動の姿勢である。
意地の悪い週番生徒はチェストの上に折り畳んだ軍装や下着がちょっとでも曲がっていたり、はみだしたりしていると「なっとらん」と言いながらチェストから払い落としたり、異臭のキツイ軍足を鼻の上に載せて行くのだが、「巡検終わり!」までそのままでいなければならなかった。
やっと解放されると、伍長から「三号は整理し直せ!」と声がかかり、三号全員ゴソゴソと起き上がってそれを直すのだが、その時必ず対番の二号生徒が一緒に起きて直してくれるのだった。いよいよ寝静まって一号生徒のイビキが聞こえる頃、「三号はこれ位のことでヘコたれるな!」と対番二号が小声で励ましてくれたものだが、三号は無性に哀しくなり、いつしか涙が頬を伝わる夜を誰もが経験したもので、それでも疲れ切った若い身体はいつしか泣き寝入りすることとなる。
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起床動作もようやく要領が分かって来た自分の昼食後のことであるが、一斉にどの寝室も総ての三号のチェストの上や、寝台の上がメチャメチャになっていて、毛布やシーツや下着類まで全員のものがゴチャ混ぜにピラミッドのように積み上げられていた。
ジュンは「ハハーン…」と直感し、入校教育期間の最後の洗礼だと思ったが、昼からの課業整列(と言っても三号はまだ机上の勉強はない)までの間のわずかな時間で直さないといけないのだ。三号全員どこの分隊でもテンヤワンヤの状態で、それぞれ個人の分隊名、氏名を書いた記名をいちい確認して整理し出したが、自分のことだけで精一杯で、隣の者とぶつかったり、枕を飛ばす者、チェストの角で頭をぶっつける者、とにかく、同僚の三号のことなど頭にないわけだ。
これが『江田島地震』と『海軍』の書にあったものだと思いながら、一通り自分の持ち物が整理がついて要領の悪い同分隊の三号を尻目に、課業整列の方へ向かったのである。
これが結果的に悪かったことに気がついたのは、夜の自習中休みのときにはっきりした。「三号は全員整列せよ」との声がかかり、江田島地震の締めくくりがきたのだ。すなわち、早く寝室を出た者順に厳しくおとがめが来る寸法になっていた。
いわく、「三号十八人それぞれ早い者勝ちで、課業整列に遅れそうな者をなぜ助けてやらないのか! 軍艦乗りはたった一人の落伍者や、一人のミスで全員が死地に追い込まれることもあり得るのだ」という論法である。
娑婆ではやっている言葉の「軍人は要領を本分とすべし」が逆目に出た話であった。
このときばかりは、ジュンは三号の中でも人の倍程殴られたのだった。
〜上に戻る
入校教育も最終に近づき、一号生徒のシゴキにも半分ヤケッパチでどうにでもなれと思い始めた頃、今まで比較的前面に出なかった小銃係生徒が、鬼のような顔付きでガナリ立てだした。いわく、「貴様達は入校教育期間中陸戦訓練ごとに小銃の手入れをするよう言われているにも拘わらず……」とから始まり一通りのお説教のあと、いつもの通り三号並べと言い出した。
またもや鉄拳制裁かと思いきや、「三号はそれぞれ自分の小銃を架台から取って銃身の中を見ろ!」と来て、「銃身の中は錆だらけだ!」と言うお告げなのである。日頃からタコ紐の先にウェスの小さいのを結びつけ油に浸して銃身の中に通しているのだが、自習室の夜の電灯の下で「見ろ!」と言われても錆かどうか判断できるはずもない(兵学校の小銃は日露戦争当時の38式歩兵銃だったが、太平洋戦争にまで旧式の小銃を使っていたのでは、敗戦も当然だったといえる)が、そのようなご宣託なのだ。
「三号はようく銃身の中を覗いて見ろ!」と再三言われ、見てみるが、「別に錆があるとも思えないのに……」と不平面をしていたが、そのうちに小銃係生徒が「小銃を手入れする気持ちに魂が入っとらん」と言って、「拝め銃!」をせよとのことだ。拝め銃とは、小銃を両手で持って水平に腕を伸ばして支えることで、初めは大したことはないのだが、時間が経つにつれ腕が疲れて来て、だんだんと腕が下がって来ると、一号が腕の下がった肘の部分を叩いて回り、「しっかり持て!」と叱咤する仕組みであった。これには三号も閉口して、鉄拳制裁の方が短時間でよっぽどスカッとしていると思ったものだ。
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明日の日曜日には三号も外出許可となる前日の土曜日の午後は、入校教育の締めくくりに、全校一斉に大掃除ということになるのだが、これが甲板掃除という代物であった。
ソーフ(雑巾のことだが荒縄みたいなモップ)と言う初めて見る道具で、「ソーフ用意!」と掛け声で三号は全員自習室、寝室の床面を磨かされるのだ。「廻れ!廻れ!」と言う呪文を聞く羽目に陥ったのである。
甲板掃除とはもちろん、戦艦、巡洋艦に代表される海軍自慢の軍艦の甲板を磨くものだが、この場合は、自習室や寝室の床を甲板に見立て、ソーフとは言いながら、荒縄を腕の太さ位に丸めて縛ったもので、両手で持ち角力の忖居の姿勢から左右に足を片方づつ前に押し出しながら、一、二、三、と三回づつ交互に床にこすりつける。四、五回廻れ廻れをやらされると足腰と腕がくたびれて来る道理だ。
十八人の三号がつぎつぎに列をなして這いつくばっている姿は、とても将校生徒のイメージではなく水平さんそれ自体であった。十回、十一回と廻らせられる頃には、ヘタバッてきた者に一号生徒が甲板掃除用の盥(たらい)(オスタップと言っていた)の水を頭からかけて気合いを入れるわけだ。全身濡れ鼠になりながら、半分朦朧となった三号にようやく「ソーフやめ!」の号令がかかる間の十数分は地獄であった。
海軍魂と言う部類の強固な精神「負けじ魂」とを養うにはこのような訓練を必要としたのだろうが、やらされる方は悲劇であった、ただし、今我々を鍛えている一号生徒もその二期先輩の七三期生から同じように鍛えられたのだと、その時は観念してじっと耐えていたのである。
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前の日の土曜日で入校教育が終わり、次の日の日曜日に晴れて三号も外出ができる日が来た。第一種軍装に身を固め分隊点検の列に並ぶと、この二週間でどこか入校式当日の中学生より数段逞しく感じられたのは、お互い苦しい「シゴキ」を乗り越えて来たせいだろう。同分隊の三号同士で一体どこへ行こうかと小声で相談していたのだが、やはり古鷹山登りがいいということに落ち着いた。
大原分校の校門を一歩出たときには一種異様な気持ちになり、吸っている大気も一味違う様に感じたのはジュン一人ではなかった。一路本校の傍らをすり抜け古鷹登山道に入った。いわく、日露戦争のときの旅順港閉塞隊の指揮官軍神広瀬中佐が、「古鷹山に兵学校在学中百回登った」と言い伝えられていた。
また、古鷹山は海抜三九二メートルあると教えられ、これを「御国」と称していたが、戦後の地図を確認したところ、それ程高くないことを知ったが、その頃はそれを真に受けていたのだった。瀬戸内海に点在する島の山々は、花崗岩質のもので、木々も大きく育たない禿山に近く、潅木が繁っている程度なのだが、やはり山頂を極めると遠望は素晴らしく、一人前の海軍軍人らしく感じて来るのだから不思議なものだ。
何と言っても握り飯の弁当を食べ、一種軍装ではあるが寝そべって青空を仰いで見ると入校以来のことが嘘みたいに思えて来るのだが、そろそろ帰校の門限が近づくにつれ、現実に引き戻されて来るのは否めない。
帰校後の三号が受けた一号生徒からの洗礼は、先週の二号の受けたものの倍程であったことはいうまでもなかったのである。
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入校教育期間が終わり、いよいよ課業(勉強)が始まり出したのは四月下旬からだった。課業整列で分隊点検を受けたあと、一教班3分隊で編成した五十四人が一つの講堂(教室)に入るわけで、ベグ(海軍用語でカバンのことだが、白いズックの袋であった)をしっかり小脇に抱えて、足を上げ片手のみ振って行進して行くのであるが、その通路でも一号の週番生徒が行進の仕方が悪いと気合いをかけるのだった。
いよいよ、課業始めのラッパでそれぞれの週単位で決められた講義が開始されるのだが、初めの頃はほとんどが普通学で、数学を初めとした中学校の延長線みたいな勉強が続いたのである。
昼食までの五十分単位の授業で、ほとんどが東大出身の文官が教鞭をとっていて、その授業中は一号生徒がいないので天国であった。たまたま、専門の軍事学のハシリを習うときは、兵学校出の兵科将校が教えるわけで、その折りは呑気に構えておれず、時として居眠りでもしようものならネームブロック(ブロックの様な形の名札を自分の机の上に置かされていた)で頭をこづかれたりもした。
何が何だか分からなかった授業に「海洋学」なるものがあった。天才肌の東大出の教官がどんどん講義を進めて行くのだが、今考えてみると、天文学、気象学(今で言う地球物理学)に類する、海の男が知っておかねばならぬ天然現象を習っていた。十六歳の少年達が今まで聞いたこともない内容だったので、課業が済んだあとには皆顔を見合わせ、「貴様分かったか」「全然分からん」との会話が乱れ飛んでいた。
しかし、どの授業のときでも一号の監視がないのは別天地で、兵学校の校内での極楽の場所は、授業を受ける講堂と汚い話だが大便所の中だけだったのである。
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そのうちに午後の課業をやめてカッターの特訓の日々が始まり出したが、これが兵学校名物の総短艇という代物だった。
全校一斉に分隊対抗で実施する競技で、短艇係の一号の目の色が変わり出した。それぞれの分隊の一号・二号・三号が学年別に競うのだが、普通漕ぎ手は十四人、そして艇指揮と艇長が短艇の艫(船尾)に乗って舵を取るのと全体の漕ぎ方を合わせるため叱咤激励する二人と合わせて十六人で一隻の競技である。
丸太棒のような櫂を一人一本ずつ右舷は右側、左舷は左側を漕ぐわけだが、一人でも非力な者や調子を合わせられない者がおれば、ピッチは揃わず、左右の力加減が違っても艇は真っ直ぐ進まぬ道理だ。
訓練は、カッターを吊しているダビットから滑車で海面に降ろすことから、全員乗り組んで漕ぎ始め、沖のブイを回って戻ってきてから接岸し、ダビットに吊すまでだが、十六人の気持ちが一つになって力を合わさねば旨くいかない。ブイを大廻りしては損であり、また接岸時の巧拙も時間を争う競技では大事なポイントであった。
訓練のときは三号のカッターの艇指揮、艇長はそれぞれ一号の短艇係りともう一人が乗り込み、ブイを廻って皆がフラフラになる頃ようやく接岸と言うときに「櫂立て、防舷物出せ!」の号令がかかるのだが、ほとんどの部品の言葉が英語なのに、この防舷物と言う呼び名は一種独特だった。防舷物とは字の如く短艇が岸壁や障害物から舷側(当然ながら木製だ)を守るためのクッションで、パイナップルを少し長くしたような格好のものだったが、形の印象から男性が一人一人一個必ず下げている(中味はタマタマで二つ)一物をさしていた、
朦朧としていた三号の一人がその号令に従わず出し忘れのまま岸壁近くで一号が気付き、「○○生徒、タマタマはどうした?」と詰問の叱声が飛んだりもする。万一その部分が岸壁に直接当たると損傷するので、慌てて隣の三号が出してやるという場面も出て来る。
訓練に訓練を重ねて、明日がいよいよ総短艇の日と言うとき、ジュンの所属する508分隊は何の因果か、天の配剤か、急激に人数が増した生徒数にカッターが不足していて、五部十分隊で競うはずが九分隊で行われ、508分隊だけ見学と言う羽目に陥り陸(おか)に上がったカッパとなってしまった。本校と分校の総短艇の日をやりくりしていたのだが、たまたま、前日に本校の508分隊の連中に何らかのアクシデントがあったのだろうが、当日になって回送されて来なかったのだろう。
実の所は、本番の競技の方が楽で功名心もあり、やりたかったのだが、そのあと短艇係一号が荒れたことはいうまでもない。
入校後丸一カ月半を過ぎる頃から、なぜか一号が三号をあまりシゴかなくなりだした。
夜の自習室の自習は前半五十分、中休み二十分、後半五十分で計二時間程は、自分なりの勉強するわけだが、一号は皆それぞれ真剣に自分の自習机に向かっているのだ。それもそのはずで中間試験があるとかで、三号にかまっておれなくなり出したのである。
ジュンは限られた時間で勉強し、二十四時間起居と共にする生活の中で、同僚といっても競争相手である三号同士が今後席次を争うのだと思うと、中学時代からガリ勉タイプではなかったので、内心これは好条件であるとホクそ笑んでいたほうだった。
今回三号は試験がないので気分的に楽な気持ちだったが、シーンとした自習室は今までとは違った静けさの中に、一号二号の目の色が変わって来ているのを肌で感じていた。
時折二号生徒が、「○○生徒機密図書箱に用があります」と申告すると、伍長が「ヨシ!」と言ってからその二号が出入りするときの立ち振る舞いが終わると、また静寂に戻るのである。
秘密図書とは、海軍の秘密事項を書いた教科書類で、当然ながら兵学校の軍事学の中に記述されていた。色合いはピンク、薄赤、濃赤の三段階だったが、本の片隅には「秘」「極秘」「軍事秘」と印刷されていて、軍艦や航空機の構造、電波探知機や、高射機銃の使用手順など座学で習うものの中で、実践に役立つ内容のものが入っていたのだ。
その自習室の緊張をときほぐすかのように自習終わり五分前に発光信号が始まる仕組みになっていた。海軍では音信のトゥートゥーの代わりに夜間軍艦同士がサーチライトを点滅してトッートッーの音を光に変えて交信する方法であるが、それを自習室の全面の裸電球の青色球を点滅させて、宛一号、宛二号とやり出すことが多くなって来たのである。
「三号も一緒に電信番を出して受信記録せよ!」と言われ皆やらされたが、音信では一分間四十字〜六十字のレベルだったが、発光信号ではその半分くらいの速度で流すのが常だった。それというのも、しばらくとり続けると目が眩んで来るからである。ジュンは視力は双方とも2.0で自信があったので、宛一号の分までかなり良く受信できて褒められもしたが、入校当時視力1.0すれすれで合格した連中はとれなかったようだ。特に海軍では視力は大事で、海上勤務であれ、飛行気乗りであれ、視力が良いにこしたことはなかったのである。
試験前の自習室ではようやく兵学校も勉強にいそしむところだったのかと、今までどこかに置き忘れていたものが帰って来たような気になった時期であった。
兵学校教育のスケジュールの旨い点だが、一号二号が試験の真っ最中に三号には乗艦実習なるものがあり、一号・二号と離れるようになっていた。すなわち、ジュンの所属する508分隊を含む五部十分隊と一部十部隊計三百六十名は、まず江田内に碇泊中の重巡「利根」に乗り込み艦内見学をした。
真珠湾攻撃の空母群を守って緒戦の大戦果を挙げたのを手始めに、三年近く太平洋、印度洋を僚艦として駆け回った帝国海軍が誇る一等巡洋艦(一万屯級で通称重巡といっていた)も燃料の重油がなくては動けなかったのだが、艦内を見学して驚愕した。
なるほど、海軍自慢の最新式重巡だけあって、電波探知機が艦橋の廻りに聳え立っているし、主砲、副砲は全部前甲板に、二連式魚雷発射管は左右の舷側に備わっていたし、後甲板には高角砲軍と六連式高射機関銃が林立しており、いざ敵機来襲ともなれば中央にある側距儀の望遠鏡を覗いて照準を合わせ、集中制御ボタンを押すと一斉に火を吹く仕掛けであった。
戦うほうの見学のあとは居住区といって艦内生活をするスペースを見て回ったが、艦内はむやみやたらに仕切りが多く、また扉が多かった。艦内の一部は大きな厨房があったが、そこは主計科の持ち分になるのだが、何百人もの士官、準士官、水兵さん達の胃袋を三度三度満たす炊事道具が珍しく、鋳物工場で見かけれるようなトリベ状の蒸気釜や、スコップの兄貴のようなしゃもじなど、どれもこれも一般家庭では見ることのない大仕掛けのものばかりに目を奪われ、あちこち覗き込んでいるうちにジュンは見学のグループからはぐれて、次のコースが分からなくなり、いったん甲板に出た。
そこで通りすがりに中尉の襟章がある若い将校さんに出逢って、行き先を聞いたのだが、これが大きな誤算で鬼よりこわい甲板士官だったのである。兵学校七三期バリバリの張り切っている真っ最中の甲板士官に尋ねたのだから、さあ大変だ!ー「ボヤボヤするな!」と日頃一号の倍以上のガナリ声で、殴られはしなかったが、胸元をドヤされた挙げ句に行き先を教えてくれた。
それもそのはず七三期は奇数期で戦時中は兵学校は三年の教育年限だったから、現在ジュン達がシゴかれている一号が七五期なのであり、その連中をシゴいたのがこの甲板士官の同期生達で、その中尉さんの目に映った七七期生は赤ん坊に見えて、「七五期の連中の鍛え方が足らんのだ」とでも言いたそうな顔つきだったような気がした。やっとの思いでグループに追いつきやれやれだったが、ジュンにしては「大チョンボでした」としか言いようのないヘマをしでかした艦内見学の一駒を演じたのである。
「利根」の見学が終わると、姉妹艦の「八雲」と共に二隻で江田内から瀬戸内海のあちこちを航行するのである。日露戦争当時は石炭を焚いて航海していた艦も改装に改装を加えて(元々は英国から買ったもので昭和の時代になって日本近海を守る程度の特務艦と称していたが、毎年兵学校を卒業した少尉候補生が、平時には、香港、シンガポール、シドニー、ハワイ等に航海することの方が一般の国民には有名だった)重油を焚いて走るようになっていたし、艦内は「利根」に比べればゆったりしたものだった。
しかし、乗り込んだ直後の甲板士官からは「貴様らを遊覧船に乗せて貴重な油をつかうのはもったいない限りだが……」と言われ、海軍の燃料不足が予想以上に深刻なことがはっきりした。
三号のときの乗艦実習は、初歩的な海上での船の生活に慣れるためのもので、軍事的なものはほとんどなかった。艦内の起居を初めとして将校生徒としての自覚を持たせるため、水兵達の訓練の見学や命令の伝達方法(艦内では伝声管で伝えることも多い)などを学ぶためのものだった。
ただ、特務艦といえども主砲、副砲や魚雷発射管などは外していたが、空からの攻撃に対する高角砲、高射機関銃は装備していたので、まったくの無防備ではなかったのである。
三号生徒が一番閉口したのはハンモックの起床動作の訓練で、二晩程寝るためにこれは見学とはいかない。髭をはやしたかなり年配の上等兵曹がいちいち説明してくれるのだが、ハンモックと言う代物はやたらと紐が多く、拡げるのも畳むのも旨くいかず、特に畳んだとき中味の毛布がはみ出したりして、上等兵曹からは「生徒達のハンモックでは防弾の役にはたたない」と言われた。
そういわれれば、良く日本海海戦のときの東郷元帥が艦橋で双眼鏡をブラ下げて立っている写真を見たが、当時は艦橋と言わず甲板での指揮所付近は総てハンモックを縦長に並べるのが、実戦のとき炸裂する砲弾の砲片から身を守るためには一番いいと聞かされていた。そのハンモックで二晩寝たのだが、ベッドと違い背中が丸まってエビのような格好で寝なければならないのにはジュンは好きになれなかった。
乗艦実習の最終日には、呉の軍港に入り戦艦「榛名」に乗り組んだ。さすが現役バリパリの戦艦だけあって排水量トンが三万三千屯と聞かされ、「利根」を一回りも二回りも大きくした艦に目を見張るばかりだった。
そこで聞かされた話では、日本海軍が誇る超ド級戦艦「大和」「武蔵」はもっともっと大きいのだとのことだったが、実は、その頃にはすでに両艦とも海の藻屑だったのである。
呉軍艦の湾内中央には、六万屯級の空母に艤装するはずだった「信濃」(初めは戦艦の予定が航空決戦で航空母艦に方針替えとなり、そんな大きな空母は機動力に欠けるということで製造中止)が大きな船腹だけを湾のド真ん中に曝していたが、七月に入って呉軍港が米艦載機の大空襲を受けたときも、米軍の偵察機が無用の長物と見抜いていて「信濃」の船体には一発の爆弾も落とさなかったそうだ。
乗艦実習が終わって鬼(一号生徒)の棲む江田島にランチ艇が到着し、それぞれの自分の分隊の自習室に戻ったときには一種の感慨に耽けりつつあったのも束の間、一号が早速三号生徒に総員集合をかけてきた。
試験試験で三日間イジメられたウップンを三号に向けて来たのだ。いわく「遊覧船で遊び回ってきた三号は…」で気合を入れられる常套手段のお灸だった。
そうこうするなかに、海軍記念日(五月二七日)が近づくころ、三号生徒全員に六尺褌(ふんどし)が配られた。試験の済んだ一・二号は一息つくように外出許可らしいが、三号は別とお達しがあり、当日は遊泳のテストがあるとのことである。
よく説明を聞くと、遊泳検定をやるのだとのことで、六月下旬からの遊泳訓練で、能力別にあらかじめ分けておいて指導訓練をするのだそうだ。五月二三日(日)の朝、一・二号は第一種軍装で三々五々外出していくのを横目に、三号たちは、第三種軍装のナッパ服に遊泳訓練用の信玄袋(褌とタオル、それに着替えの下着を入れていた)をぶら下げて、宇品が遠望できる長浜という海岸べりに、部ごとに行かされた。
一人ずつ、ブイ(海軍ではポンソーンとも言っていた)の間50メートルを往復するのだが、往きは平泳ぎで25メートル、途中から平泳ぎでも背泳ぎでも好きな泳ぎかたで、帰りはクロールで50メートルを全速力で泳がされるのだが、五月下旬の水温はまだ低く冷たくて、手足が自由に動かず、全員唇は紫に、歯は噛み合わず、ガチガチに震えながら、それでも遊泳検定は受けたのである。
海軍とは四季を通じて海との係り合いがあるにしても、これには皆顔を見合わせ、これからの遊泳訓練を慮ったものだ。
しばらくたってからある晩、自習の中休みに水泳係の一号が水泳帽子を三号一人ひとりに手渡した。三号のなかで一番上手な者が赤の一本線入り、その下が白帽でジュンはその白帽をもらった。その下が赤帽、そして白帽のてっぺんに赤いリボン(これが遊泳しているとき一番目立つのだ)をつけて通称*2赤チョンと称していた帽子が最後だが、それぞれ三号たちに配られた。
赤チョンは遊泳不能者ということで、その連中だけ、六月上旬頃から特訓が待ち構えていた。長野とか山梨から来た者はまったく海を知らなかった者もいたし、「俺はなぜ海軍なんかに入ったんだろう」とボヤく連中すなわち赤チョン組は昼食後の自由時間にバス(風呂)に集合ということで兵学校独特の有志練習(有志と称してはいるものの実は強制)が課せられたのである。
「赤チョン」の者は風呂をプール代わりに(兵学校の風呂は立っていても首筋まで湯がくる構造だった理由がこれだった)、物干し竿であらかじめ褌の結び目の部分から縄でつるし、一号がその釣竿をあげたり下げたりして、手足をばたばたさせている3号に、水に浮くコツ、水をこわがらない呼吸法などを教わるのだ。
「ドン亀」とは、竿を下げられ、水に沈んでしまう状態をいうらしいが、このドン亀の特訓で本格的な遊泳訓練にまでなんとか泳げるようになるのだから、やはり兵学校訓練の賜物といってよいだろう。
さて、六月下旬からの毎日のように遊泳訓練開始である。一号の中には三本線にさらに十字の線まで入っている猛者たちもいたが、二号の中にも熟達者はいた。遊泳訓練の中身は平泳ぎでいつまでも泳げるよう、百人単位で10×10の隊列を作り、あるところまで来ると「廻れ!」とメガホン越しに号令が掛かる。外側の者は90度廻りきるために平泳ぎであるが全速力で、内側のものは立ち泳ぎすることになる。
右回り、左回りと交互にやらされるうちにだんだん疲れてくる道理だ。近くには小雷艇に乗り組んだ一号や教員が監視しているわけで、モタモタしていると罵声が飛んでくる。海軍では遊泳検定の時はクロールで泳がされたが、その後は平泳ぎ一辺倒であった。とにかく長い時間水に浸かって浮いているのが目的で、遊泳のスピードは二の次であった。
もう一つの白帽以上に課せられた訓練が飛び込みである。1メートル、三メートル、5メートルの飛び込み台があったが、順々に高い所からの飛び込みに挑戦させられた。ジュンは1メートルは飛ばし3メートルから始めたが、中学校時代飛んでいなかった5メートルのときは海軍体操の誘導振なるものを繰り返して、1号から「いつまで誘導振をやっているか」とどなられ、「えい、ままよ」と飛んだのだが、バランスを崩しておかしな格好で海面に突入した。
卒業するまでには10メートルを飛ばなければならないと教官に言われ、そのときは滅入ったものである。
なるほど、海の男は万が一、艦が沈むときには、甲板から飛び込み、波間に漂う必要からこのような訓練をしていたのは、当然と言えば当然である。
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遊泳訓練中にも、たびたび*3 P‐38が偵察目的で第二警戒配備がでたこともあったのだが、七月一日・二日の両日に呉軍港の海軍施設を目標に米軍艦載機の攻撃を受けたのだった。
二日続けて夕暮れ時に、爆弾と焼夷弾を落とされたらしく、江田島から遠望した呉上空の夜空は紅蓮の炎があがっていた。
内地の都市が空襲でやられたと聞いてはいたものの、目の前のできごとであり、これには兵学校の本校、分校問わず、呉出身の連中は青ざめたことはいうまでもない。
七月三日の朝、特別な指示がでて、呉出身の連中は水雷艇に分乗して、両親の安否を確めに出発した。そしてそれぞれに夜遅く帰ってきたのだったが、皆沈痛な面持ちで「畜生!」「親の仇を討ってやる!」とかの言葉が聞かれたのである。
同期生のなかに、南雲中将(サイパンで玉砕)の息子がいたが、その遺族は呉市に住んでいたので、南雲生徒の悲痛な叫びはジュンにはさらにこたえていた。「すぐにでも米艦隊に突っ込んでやる!」と口走っていたのは心情としては痛いほどわかる気がしていた。
遊泳訓練も途絶えがちの二〜三日のあと、嘘のように米軍機の飛来がなく、そのなか遊泳訓練の締めくくりとして、近く遠泳が行われる旨の伝達があった。
時折、高高度でP‐38の1機だけが偵察に飛んで来ることはあったが、その間隙を縫っての訓練が続けられたのである。その頃、実際には、1号生徒たちには見せてもらえなかったが、兵学校の上空にビラが撒かれ出した。
そのビラの内容は、一号の話によると、「兵学校の皆さん、米空軍は江田島は爆撃しない。しっかり勉強して新しい日本の再建に若い力を発揮してください」というものだと教えられたが、もう一つつっこんだ「日本はこの戦争にはもう負けたのだから…」という接頭辞は欠落して伝えられた。
一号生徒たちは「アメギリスに負けるな!」とか、「敵の謀略に乗るな!」とかいっていたが、実のところ、週番生徒室には感度のいい受信機があって、一号たちは短波でデマ放送を傍受して、いろいろと知っていたのである。
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遊泳期間の合間の土曜日の夕方から、「巡航」と称するものがあった。1個分隊が二隻のカッターを連ねて江田内から瀬戸内海に浮かぶ小さな無人島に行き、幕営するのである。
その日は、初夏の夕焼けの美しい時で、二号生徒の*4酒保庫について行き、飯盒炊爨用の米から、肉や野菜、キャラメルや羊羹等のお菓子まで積んで出発である。
p-38が来たときは、帆走できないが、うまく島影伝いに行くように言われ、2号生徒の鮮やかな帆さばきで二隻のカッターは津久茂水道を整然と通り抜けた。日がとっぷり暮れて夜の帳がおりる頃から海面には夜光虫がキラキラしだした。
さらに帆走を続け、とある小さな島へ近づくと「帆をおろせ」「櫂出せ」と次々に指示が変わり、櫂で漕ぎながら接岸した。
幕営のためのテントの設営や飯盒炊爨での夕食作りに腕をふるう者、いうなれば遠足気分でおのおのの役割をこなした(もちろん一号は殿様でアレコレ指示するだけだったが、いつものガナリ声は一切なし)。
万一にも夜間に敵機の機銃掃射を受けてはいけないので、火の使い方は最小限に、上空から見えないところでといわれていたのだが、一号いわく、「p−38は夜は来ない」といって派手に火の手を挙げてキャンプ気分で遅い夕食を満喫した。酒気は帯びずとも打ち解けた雰囲気のなかで、一号は三号たちに「今夜は娑婆っ気を出して寛ぐのだ」といってくれても、どのようにハメをはずしてよいものやら分からなかったのだが、一号の指名でまず二号の先輩が歌いだした。
真顔で『八百屋お七』をキャンプファイヤーの火に顔を染めながら歌いだしたのだから驚きを通り越し、三号同士顔を見合わせていたが、そのうちに手拍子を叩くようになり、終わるとヤンヤの喝采まである。「次!」と言って今度は一号ののど自慢が「僕のスーチャン」を美声で始めると、どこに隠しもっていたのかハーモニカの伴奏も入る趣向となり、次は三号がやれという話になった。
三号たちはとまどいながらも、巡行とはこのようにくだけた状態を作るのだと思い、日頃は怒鳴りちらしている一号のほうが本当は娑婆気を欲しているのだな?と感じつつ、皆で「富士の白雪をノーエ…」とノーエ節を合唱した。
次第に一、二、三号のへだてなく、少しやわらかすぎるくらいの歌まで出てきだして最高潮に達し、23:00頃になった。ようやく伍長が「巡航節で締めくくれ」と言い出し、皆で‘娘さんよく聞け!生徒さんの好物ははよー娑婆の便りとよー、酒保・羊羹よー“娘さん惚れるな!海軍士官によー沖でドンとくりゃよー、若後家さんだよー”と延々と合唱した。
それが済むとそれぞれに分かれて幕舎に入って寝たのだが、夏でも海岸べりは毛布1枚被っていないと夜は冷えてくる。不思議なことに毎晩のように悩まされた蚊は一匹もいなかったので朝までぐっすり眠れたのである。
次の朝は味噌汁と沢庵で久しぶりに旨い朝食の後、砂浜に輪を描いて、相撲をとったり輪投げに興じたりして過ごした。昼食は簡単にカレーライスをぱくついてから、帰校の準備を始め、再び海上にでて「帆を用意」の声がかかり、カッターのなかでは「兵学校3勇七」や「江田島健児の歌」「生徒に示す」などを思い切り皆で声を揃えて歌い続け、津久茂水道に入る頃には「眞道山*5 ヨーソロー」で江田島に戻って来た。
兵学校ではこのような「巡航」で‘一時のやすらぎ‘を与えつつ、先輩が後輩に身を以って教えつないでいくことも訓育の一環だったようだが、戦後、先輩諸氏の著書や期友会の席でも必ず語られるのがこの「巡航」の楽しさであり、良き思い出が誰の胸にもあったことが証明されるのである。
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梅雨の終わりにかけて夜間の陸戦訓練があるといわれていたが、その日がやってきて、「今晩は眠らせてはもらえぬぞ」とおどかされた。
対岸の眞道山付近で源平に分かれての陸戦訓練とかだったが、一部と五部の生徒全員で攻撃と守備に割り振られた。一号生徒としても実際はこの陸戦訓練は本当のところ、気が進まなかったようで、夜の八時ごろ小雷艇に分乗し、小雨の降る中を合羽を着て出掛けた。
ジュンたちは伍長補を頭にして二五人ほどの人数で戦車隊の一個分隊ということだった。1枚の地図と懐中電灯を頼りに進入路を捜し求めていったものの、周りは一面蜜柑畑でどこにまともな道がついているか定かではなく、そのうち、伍長がまだ攻撃時間には余裕があるということで、蜜柑畑で仮眠しようということになった。
伍長補も陸戦訓練にはあまり力を入れる気がないのか、この時の仮眠は合羽を着たまま雨も止んだ天を仰いで寝ようということになった。これが失敗のもとで攻撃隊の集合場所に時間通りに着けない結果となった。
東の空が白みかけてきだしてそれらしきところに着いた頃、相手防御陣の訓練担当教官から*6 誰何(すいか)(すいか)を受け、「この分隊は全員戦死」といわれた。何がなんだか分からぬ夜の陸戦訓練は、多勢の兵学校生徒が眞道山に向かったはずだが、始めから終わりまで味方にも敵にも会わず、ただ「全員戦死」といわれ、帰りの水雷艇に乗って帰校した。
けだし兵学校生徒の意識では、海の戦いのことしか頭になく、特に一号生徒の間では、艦船や航空の砲撃、雷撃、空戦などの教科に時間のほとんどを費やしているのだから、思い出したような陸戦訓練といったところで、その気にはならなかったようだ。
他の分隊でも五十歩百歩のことをしていたようで、ただ対岸まで行って蜜柑畑のなかで仮眠し、梅雨の晴れ間の一夜をベッドならぬ自然の大地の上で寝てきただけのことだったと帰りの小雷艇のなかで聞いたのだった。
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七月半ばを過ぎた頃、遠泳があるとのお達しで、各分隊ごとに一号から三号まで全員で泳ぐ日が来た。朝九時から海に抛り込まれ、一切陸にあげてもらえず、しかも20×20=400人が一つの集団で泳ぎ、江田内から津久茂水道近くまで行き反転したが、10時すぎになると水雷艇から海の中にどんどん乾パンを抛り込み出した。
1号が3号に向かって「泳ぎながら腹が減った者は食べながら泳ぎ、余分な乾パンは頭の上に載せておけ」とのことである。なるほど腹が減っては泳げぬわけで、その乾パンも海軍のものはクラッカーに似ていて、陸軍の乾パンに較べて平たくて大きく、少し甘みもあったので、それが海水に浸されて塩味が加味されると意外と旨かったのである。
とにもかくにも三時間以上泳いで上がった時には足が地に着かない感じで、上がってから配られた飴湯の美味かったことは、小中学校の時には到底経験しなかったものであった。
この遠泳が済んだら本来なら兵学校の生徒全員が二週間ぐらいの暑気休暇で国許に帰省を許されるのだが、この年は戦況の悪化でとりやめになったのである。皆の落胆は目にみえるようだったが、敗色の濃い戦況の中で東京をはじめ、日本の主要都市が空襲を受け、兵学校の生徒たちが第二種軍装(夏の軍装)で郷里に帰ることなど、軍部でも民間のほうでも憚られ、特に兵学校の生徒に灰塵に帰した街々を見せたくなかったのであろう。晴れ着姿を一度は大連の両親を初め、麗しの光ちゃんに見せたい儚い希望は潰え去ったわけだ。
夏休みの代わりにといってはなんだが、ニミッツの率いる米海軍機動部隊が呉海軍の大空襲をもたらしたのだ。兵学校の生徒にも防空壕掘りが課せられたのは、ちょうどそれと符号が一致していた。
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遊泳訓練を妨げたp−38の目的は呉軍港施設とその周辺に停泊中の軍艦軍の攻撃だったのだが、米海軍では二0年三月に呉軍港を空襲したとき以来、「呉の軍港の弾幕はこわい」と言い伝えられていたそうで、それ以来、大がかりな攻撃はしかけてこなかった。
そのため四〜六月の三ヵ月間は平穏だったのだが、いよいよ米軍も日本海軍の息の根を止める強襲に踏み切ったものか、米艦載機群が本土接近中という機密電報が入り、「第一警備配置につけ」の第一声が上がったのが七月二七日の朝であった。呉軍港大空襲は七月二七・二八日の二日間にわたり、延べ1,400機の艦載機が来襲したのであった。
初日のそのときは、生徒全員防空壕にほとんど入らされたままで、防空壕の入り口付近にいる一号が上空の状況を見て来ては皆に口伝えしてくれていたが、編隊で飛んでくるグラマンに対し、断末魔の軍艦が遂に主砲までもたげて零射●しだしたらしく、六機、九機と飛んでくるところに炸裂すると、「一瞬にしてバラバラになって陰も形もなくなった」との報告であったが、夕方警報解除になって錬兵場を通ってみてびっくりした。味方の爆弾の破片や米軍機の残骸があちこちに散らばっていたのである。
江田内に停泊していた「利根」「大淀」や、江田島外周にいた特務艦や陸海軍の陸上の対空砲火が一斉に必死の防戦をしたわけだからそれもそのはずであった。ただし、ただの一機も援護機なし(日本軍の陸海軍機の残存機はすべて特攻機として警報と同時に避難させていた)ではしょせん勝ち目はあるはずもない。
次の二日目も朝食を済ますか済まさぬうちに「第一警戒配備に付け」ときて防空壕直行となったが、その日は米軍艦載機も戦法を変えてきて、急降下爆撃を挑んできたらしい―との一号の口伝えが囁かれだした。
そのうち一号の悲鳴に近い声が伝わってきた。「利根」が被弾して火焔を噴き上げているという。ジュンたち三号も1号生徒が制するのも聞かず、防空壕の入り口まで出てみて愕然となった。乗艦実習でくまなく艦内見学をした「利根」は、火焔をあげ、内部の爆薬に引火したもようで、それでも上空のグラマン目がけて砲火を浴びせているのだ。グラマンはグラマンで次々に新手が突っ込んできて、ついに「利根」の対空砲火も衰えだし、刀折れ矢つきたごとく、艦首をもたげ、艦尾が着底してしまったのである(江田内は浅瀬だったので、艦は完全には沈まなかった)。
対岸の飛渡瀬でも、一時は連合艦隊の旗艦を務めたこともある日本海軍の誇る快速巡洋艦「大淀」も横転して、これも船腹を見せてまったく戦闘力を失い、我々の目の前で最新鋭巡洋艦が二隻沈んでしまった。この現実を間のあたりにしては、いかにえらそうに強がりを言っていた1号たちも一言もなく、ジュンもこの戦いは完敗と思ったのである。
敵機の去ったあとは、現実の惨状とはうらはらに、夕焼けの映える西の空をバックに、「利根」は菊のご紋章を天に向けて沈んでおり、何年もの間乗艦していたであろう、一人の古参の水兵が、それにしがみ付き、退艦命令に従わずいつまでも泣き喚いていたのが、50年を経た今でも強烈な光景として脳裏に残っている。
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七月二九日朝の分隊点検は形通り行われたが、兵学校全体が、一種の虚脱状態で、鳴り響くラッパの音も力なく聞こえ、講堂に行進する足並みにも元気はなかった。
それもそのはずで、本校横の兵学校病院の病棟には二日間にわたる戦闘で負傷した将兵が多数収容され、兵科の教官たちや教員たちはほとんど姿を見せず、その対応におおわらわだったのだ。受けたショックで三号同士の会話も勉学に耳目が向くはずもなく、文官の教官が淡々として黒板に講義を進めるチョークの音が、空しく響くだけであった。
昼食・夕食時になっても、一号生徒の怒声も聞こえず、今までとはまったく違った兵学校が現出したのである。
一号は一号だけでなにやらぼそぼそ言っているだけで精彩がなく、三号は気の抜けた気持ちでただ時折一号の「実際」とか「畜生」とかの短い言葉を耳にする日が続いた。
次第に呉軍港の被害や江田内外周にいた、日露戦争当時の特務艦に至るまで、沈められたと聞くに及んで意気消沈するばかりであった。
大空襲のあとは嘘のように警戒警報がでることもなく、真夏に入った寝室では蚊帳を吊って寝ていたが、蚊帳の中にグラマン(蚊)が入って食われてしまったとか、食料がますます逼迫してかぼちゃ料理ばかりとか、“実際”というようなことが話題になるほど、情けない兵学校生活に成り下がってきたのである。
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虚脱の日々を送りつつの一週間後に、運命の八月六日の朝を迎えた。
その日の朝、「第二警戒配備につけ」の第一声が鳴り、そのうちに江田島のちょうど真上をB29ただ一機が高高度で広島の方に北上して行ったが、そうこうするうちにそのB29が南下したので「第二警戒配備解除」となり、ちょうど自習室前でゲートルを外しかけた八時十五分に、「ピカッ」「ピカッ」と二回閃光が走ったあと、一拍をおいて「ドカン」という音と「アッ」と感じたのが一緒に来た。
一号が瞬間「伏せ」と言ったが一瞬何のことかわからぬまま課業整列に向かったのである(戦後ピカドンと称しているが、「ピカッ」「ピカッ」「ドン」「アッ」だったのだ)。
講堂に入り皆で北の方角に目を向けると晴れた空に少しピンクがかった原爆のキノコ雲が約6,000メートルまで上がり、そのあと、むくむく入道雲が持ち上がってきて、その入道雲は夕方近くまで消えなかった。
何しろ大原分校と広島の宇品までは10キロしかなく、今思えばたいへんな経験をしたことだが、そのときは他の分隊の三号が「ちょうど我々の頭の上でB29が落下傘を2個落としていった」といっていたし、初めは広島の陸軍の火薬庫が爆発したのだという噂だったのが、昼食後には「新型爆弾」をB29が落としたらしいと事実の確認情報が入ってきた。 あとで判明したことだが、その落下傘は爆発の効果を測定するための風圧計だったとのことである。
兵学校の教官たちの大半はこのあとすぐ呉鎮守府に呼ばれ、そのなかから直接被害状況の視察を命じられた教官が何名かあったわけで、翌日の夕方には事の重大さが報じられてきた。なにしろ兵学校内には新聞なるものがないので三号に入る情報はすべて一号生徒からの聞き伝えが唯一のものであったのだ。
八月八日の朝になると全校生徒におかしな命令がでた。すなわちシーツの端を切って白い頭巾をつくり(目のところだけ二つ穴を開けておく)、「第一警戒配備」が出たらそれを被って防空壕に走れというお達しである。
広島の被災状況で黒焦げになった人を見て、ケロイド状の火傷防止になるとの判断だったらしいが、珍妙な格好をお互いに見合わせて‘実際!‘とぼやいたものだ。ただし、これでは放射能よけにならなかったことはいうまでもない。
八月九日未明になると、ソ連が対日戦線布告をして北満、東満に侵入中との情報が1号からもたらされた。一部誤報だが、「ソ連がアメリカに対し、宣戦布告をした」と伝えられ、それはおかしいと言い合っていたが、詳報が入るにつれてジュンはまず上の姉(陸軍中尉の義兄と結婚していた)のことや、新京のすぐ近くの吉林にいる兄、大連の両親や下の姉が大丈夫かとたちまち身内のことが心配になってきた。
その後、一0日、一一日と課業どころではなく、いくら一号生徒は毅然として「生徒の本分を尽くせ!」といってもなにもかもが上の空だった。一三日に入ると1号生徒が「ポツダム…」というようなことを囁き出した。実のところ週番生徒室の短波ラジオは四六時中つけっぱなしだったのである。一四日の夜遅くに阿南陸相の自刃が伝えられた頃から、兵学校の中でも敗戦という十字架を意識せざるをえない状況になってきて、その夜の寝室では暑苦しい蚊帳を跳ね上げて、「これからどうなるのだ」と、上級生、下級生の区別なく私語が続き、眠れぬ夜を過ごした。
八月一五日の正午に、天皇陛下の‘玉音放送‘があるから全校生徒は錬兵場に整列とのお達しで、その玉音放送を聞かされたが、雑音ばかりで、何がなんだか分からず、改めて生徒隊監事の大佐殿からの訓辞を聞いた話で、ようやく日本の‘無条件降伏‘が現実となった。
そのあとは、それぞれの自習室で‘自習せよ!‘との命令がでたが、自習どころではなく、自習室で後ろ向きに車座を作るようにして(今まで一号が座っている方向に目を向けることはできなかった)、昨夜の寝室での会話の続きとなった。
いわく、陸士・海兵の生徒たちは米軍の監視下におかれ、北海道の1箇所に集められて特殊教育を受けさせられるとか、いや北海道ではなく、「オーストラリアだ!」等々短波放送がもたらす英語の放送を聞いてきた一号が、中途半端な英文読解力でいろいろと情報を伝えるおかげで、‘秩序ある混乱‘とでもいうべき状態に陥っていった。
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一六日の朝、課業整列の前に江田内に八号潜水艦5隻が浮上して手旗信号を送っていた。水兵が送る手旗信号は「ワレテキカングンニトッコウスル、アトニツヅクモノヲシンズ」と何回も繰り返していた。 ‘無条件降伏‘ を潔しとせず、その潜水艦五隻の艦長連中が、米海軍機動部隊を探し求めて、魚雷を一発でもお見舞いしたい気でいたのは、後輩の我々にも痛いほどわかっていた。
我々の分隊監事はそれを見ながら、天皇の勅令に従って行動するように諭されていたが、八号の五隻は、津久茂水道のほうにでていったのである。これも後の話だが、その5隻の潜水艦も豊後水道を南下して太平洋に出る前に、海軍の上層部が無電で何回も説得し、ようやく基地に*7帰投したのだ。
そのうちに新たなお達しがあり、「兵学校はイギリス海軍が接収する」ことが判明したので、城を明け渡ししなければならないということになった。赤穂浪士の大石内蔵助の心境に似た気持ちにさせられ、一号からは「立つ鳥後を濁さず」で何もかもピカピカにしておこうということに全校が一致して、「ソーフ用意!」が命されたのである。
苦しかった入校教育のときの「回れ、回れ」の甲板掃除と異なり、大粒の涙を溜めたソーフ捌きを万感込めて全員でやった。
間もなく生徒全員が郷里に帰るようになるとの伝達があり、機密書類の焼却命令が出た。いかにイギリス海軍から教えられたとはいえ、明治以来の日本海軍自ら編み出したものを何もかもイギリスに渡したくなかったのである。
大連を初め、満州から来ていた約60名のほどの生徒たちは、「郷里に帰れ!」といわれても帰る方法がない。本校を含めた満州二世たちの一号の発案で、「我々は水雷艇を一隻借りて大連港に向かおう」ということになり、教官に数名の一号生徒がお願いに行ったのだが、「米英軍は一斉に戦闘を停止したが、ソ連軍は未だに満州で南下作戦中で戦闘が続いているとの情報もあるので、内地の保証人のところに復員すべし」と許可をくだしてもらえなかった。
ソ連軍がいまだに南下中であればなおさら肉親の安否が気懸かりなのは当たり前であり、再三入れ替わり立ち代り教官に食い下がって皆でお願いに行ったが、頑として教官は頭を縦には振ってくれず、「いかなる事態が起きても諸兄らは兵学校で受けた訓練を生かして、戦後の日本の復興に尽くせ!」と説得し続けられては、不承不精引き下がるしかなかった。
そのときの教官たちの間では、兵科将校以上のものは戦犯に問われ、後事は後輩にあたる生徒に託するという気持ちが支配しておられたようで、満州に辿りついても「あたら犬死するだけだ」との判断だったのだ。
事実、戦後の混乱状況をつぶさに分析してみると、兵学校の教官たちの先見の明は正しかったようで、それらの教官たちの仲でも戦犯にとらわれ、処刑された方も何人かおられたのだからいたしかたない。
八月二二日、ジュンは、母方の伯父に当たる保証人のもとに復員すべく、身の回りのものをトランクに詰め、毛布や軍服をシーツでくるんで水雷艇を待つ身となった。
江田島を去る日は無事卒業してロングサインで別れるとばかり頭に思い描いていたのとは全然違った趣の、カッターを10隻連ねて水雷艇が宮島口まで曳航していく復員姿となったのである。
中学二年の終わりごろからは育まれてきた海軍との係わりで、このような決別があろうとは夢想だにしなかっただけに、次第に遠くなっていく兵学校の校舎や錬兵場やダビットが、涙で曇り、小さくなっていくのをカッターに同乗の、九州方面に向かう者たちといつまでも身じろぎもせず凝視していた。
宮島口に降りた生徒も数多く、復員列車が来るまで待つこととなったが、なかなか来ず、福岡県栄島郡出身の鈴木新伍長補といっしょだったこともあって、これからの行動をどうすべきかを話し合っているなか、貨物列車が到着し、整然と無人車に乗り込んだのだが、夜中中走り続けて九州に向かったのは良かったものの、煤だらけの生徒さんたちが一晩でできあがったのである。
関門トンネルを抜け、門司に着いたときから、同乗の中から駅で降りる者が次々にあり、苦楽を共にした‘俺と貴様‘の別れが始まったのが八月二三日の朝であった。
筑前新宮という駅でジュンは降りることになっていたが、伍長補との別れがつらく、互いに消息と手紙を書く約束をして、一人ポツンとホームに降りたのである。
いったいこれからどう生きるべきか!ジュンは小さい頃からのいろいろな出来事を走馬灯のように思い浮かべ、反芻しながら母親の里の象徴‘立花山‘に向かって立ち尽くしていた。
* 1 一号:当時海軍では、1号生徒(3年生)、2号生徒(2年生)3号生徒(1年生)と称した。
* 2チョン:日本において江戸時代から使用される間抜けなどの意味。
* 3 P-38:P-38ライトニング。1939年に米陸軍に正式採用された戦闘機。「Lightning」は稲妻。日本側では「メザシ」と呼んでいた。
* 4酒保(しゅほ):旧 日本軍 の基地・施設内や艦船内に設けられていた 売店 に類するもの。
* 5ヨーソロー:語源は「宜候」(よろしくそうろう)。船が今向いている方向へ、または指示された方向へ直進せよという言葉。
* 6 誰何(すいか):相手が何者かわからないときに、呼びとめて問いただすこと。転じて呼び止め聞きただすの意。
* 7 帰投:航空機・艦船や兵などが基地に帰りつくこと。
「貴様」に関してですが、1.対等な呼び名、2.目下に対する呼び名、両方の使い方があったようです。
以下、海軍77期生の記録からです。
<例1>四番以降も次々に申告して行ったが、「やり直せ」が多く、「貴様、女か!」と突き飛ばされる者もいて、十八人全員が済む頃には自習室内は異様な雰囲気に包まれた。(上官→兵学校生徒)
<例2>十六歳の少年達が今まで聞いたこともない内容だったので、課業が済んだあとには皆顔を見合わせ、「貴様分かったか」「全然分からん」との会話が乱れ飛んでいた。(兵学校生徒同士)
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