稗切り
終戦直後の暴動などが起こらぬよう、小さな駅にも歩哨が着剣のまま改札付近にいたが、ジュンの姿を認めると捧げ銃の礼で迎えてくれた。
いろいろな流言蜚語が民間でも流れていたのか、おのおのの軍艦区ごとに警備体制をとっていたのだが、特に沖縄戦線から鹿児島県の鹿屋などに進駐した米軍の情報が北九州のほうに入り込んでくるに従い、婦女子には誤り伝えられた事柄も多かったようである。
それとも知らず、その歩哨に毛布などをくるんだ荷物を駅舎の片隅に置いていくから預かってくれるように頼んで、ジュンはトランク一つを提げて小学校一年のときに訪れて歩いた道をおぼろげな記憶を頼りに伯父宅のほうへ歩き始めた。
確か椋の木が小川のほうに突き出ている家だとの記憶で駅から一五分ほど歩いた部落に着いて、その目標の椋の木を見つけた。
田舎の部落はシーンと静まり返っていたが、伯父の家の門構えに近づいたとき、門の外の防空壕の横で、故老が一人立ち働いていたのがジュンの保証人の伯父そのものだった。
母親とは二〇歳も違う(伯父は長男、ジュンの母は三女のオトンボ)伯父はもうそのときは古希を迎えていたのだから無理もないが、腰も少し曲がっていた。ジュンは第一声に「安東ジュン無事保証人宅に復員して参りました」と海軍式の最敬礼をしながら挨拶したのである。
伯父は一瞬ポカンとした表情でいたが、事情が飲み込めたらしく、とにもかくにも「家に上がれ」といって、座敷に通された。田舎の百姓屋で300年近くなる農家だが、すばらしい梁で、がっしりした家はびくともしていない。
まず伯父が防空壕の横で何をしていたのか質問すると、伯父の返事は「冬に備えて自家用の炭焼きをしていた」のだという。この真夏の蝉が鳴きしきるなかで、しかも敗戦間もないこのときに、伯父は冬の準備にとりかかっているとは…とジュンは一瞬の感慨にさらされた。七0年生き続けた伯父は、この敗戦にも動じず、四季の移り変わりに応じてその時期時期になすべきことを一つ一つやり遂げるという姿勢だと思い知らされた。
そのうちに二人の女の子も現れ、ジュンにとっては跡取りの従兄(済州島にいるとうことだった)の嫁が、乳飲み子の男の子を抱きながら麦茶を運んできてくれた。伯父の家は現在ただいまは伯父、伯母に、今出てきたソヨノさんと小一、三の女の子に乳飲み子の男の子だけということだった。
ジュンは麦茶で一息入れたあと、「筑前新宮の駅まで戻ってリヤカーでも借りて荷物を取ってくる」というと、伯父は、「それでは馬車で一緒に取りにいってあげよう」というのだ。実は馬車といいながら、引っ張るのは牛で、伯父はさっそく仕度をした。
どうするのかと見ていたら、手慣れたもので、牛小屋から牛を引き出し、鞍をおいて、馬車につないで「ジュンも馬車に乗れ」とのことだ。たった一個の荷物をわざわざ馬車で取りに行くとはと気兼ねだったが、伯父には二人きりの話を行き帰りにする機会ができると判断してのことだった。
馬車の上での会話は当然のことながら『これからどうする』ということであったが、伯父のいわく、「ジュンには考えもあろうが、満州の両親の消息がわかるまでは当分俺のそばにいて、百姓仕事を手伝ってほしい」とのことなのであった。今見てきた伯父の家の家族構成では、伯父伯母は年老いて働けず、跡取りの嫁のソヨノさんも産後間もない身体では、当面のわずか三反(今現在の家族が食べるだけの米)の田圃の手入れすらできかねているというのだ。
ジュンは‘いったん伯父宅に無事を告げて、あとはやはり日本の中心である東京に伍長を頼ってでも出て、自力で自分の道を拓こう‘と考えていたのだが、伯父は真っ向から反対を唱えたのである。ジュンの若さを諭すように「人間は一日として喰わずにはいられぬ。聞くところでは大都市ほど食糧難でたいへんな時、好き好んで出かけることはない。俺のところはおまえの食い扶持ぐらいは何とかなる」と言うのだ。
歩哨に預けていた荷物を受け取ると、すぐにまた牛は同じ道を戻ったが、ジュンは伯父の意見を尊重する気持ちと、自分の考えの狭間で迷いつつ、椋の木の伯父宅に帰ってきた。
夕食時となり、何はさておいてもジュンの無事を祝ってくれるということで、伯母とソヨノさんの心尽くしの手料理(さすがは農家らしく、材料は新鮮で豊富)で、お酒も少しは飲めるだろうと一本つけての膳に向かった。
伯母は、七男一女を産んだ身体のお相撲さん並のどっしりした老婆で、九州弁まるだしの「ヨカタイ」を連発する肝っ玉婆さんで、実は跡取り息子が姻戚結婚であったから、ソヨノさんとは叔母・姪の間柄であった。
その夜は久しぶりにアルコールも入って(中学時代は正月のお屠蘇か親父からちょっともらう赤玉ポートワイン位)座敷に一人、ソヨノさんが敷いてくれた布団の枕についたのであった。明日からのことは“ままよ”とそのときは寝たのであったが、この夜のことが、その後のジュンの一生に大きな道筋をつけたことは間違いない。
次の朝、夜が開けやらぬ時刻に早や鶏が閧の声を上げ、今までとはまったく違った雰囲気でジュンはトイレに立ったが、その時は、すでに伯父は牛小屋で何やらごそごそしていた。
「おはようございます」とジュンは朝の挨拶もそこそこに伯父が何をしているのか観察していたのだが、牛に桶一杯の水を与えてから、独特のカッターで稲の嵩を細かく切りつつあった。それをどうするのか見ていると、飼葉の桶に山盛り入れたあと、米糠をふりかけ混ぜだした。伯父がやっていることの一つひとつが珍しく、ジュンの寝ぼけ眼もスッキリしだした頃には、今度は伯母が鶏小屋を一斉に開いて小麦の餌を撒きだしたのである。要は伯父、伯母ともに家畜の餌を与えることから1日の日課が始まるのだ。
ジュンもいったん着替えようと座敷のほうに戻りかけたが、厨房のほうでは何やら物音がしていたのは、オクドさんと称する3升炊きの大きな釜を使い、朝食を薪で炊くかたわら、味噌汁やら漬物を取り揃え、ソヨノさんが朝食の準備に取り掛かり始めていたのである。
農家の朝食は早く、一家そろっての田舎独特の味噌汁の香とともに、八月二四日の朝は、ジュンにとって別天地の心地がしていた。朝食を摂りながら伯父に「朝食後何をしたらよいのか」と尋ねると、「とにもかくにも稗(ひえ)切りをしてほしい」との返事だった。豪農というのか田地田畑一五町歩もあったが、戦時中は働き手が徴兵・徴用でとられ、若い労働力はなく、老人子どもでは当面の糊口を凌ぐものしか作れなかったのだ。
ジュンは満州育ちで“米の成る木”を知らないのだ。まして“稲だ稗だ”と言われてもさっぱり見分けがつくわけがないのだが、伯父いわく、「一緒に田圃(たんぼ)に着いて行って教える」と薄鎌を納屋から2本持ち出してきて、杖をつきながら家のそばの田圃に出勤したのだ。
田圃の水はこの頃はもうすぐ台風シーズンが来るとかで干し上げてあったので、兵学校時代の体操服で入ったのだが、畝のところで伯父に「それが稗だ!」といわれてもよくわからず、「どれだどれだ」となり、伯父・甥の会話は、第三者が見ていれたらおかしなものだったろう。
判別の基準を伯父に聞きながら、なるほど、稗は稲に比して少し色も濃く、背丈もわずか長く、元気も良く、「良く見ると真中に白い線が入っている」ことにようやく気づき、見分けがつきだした。ところが稲と接近して生えているので稲を切らずに稗だけを鎌で刈るのはこれがまたテクニックを要するわけだ。その上鎌は右利き用しかなく、左利きのジュンは逆の形をした鎌で刈るハンディまであって、伯父はなかなか捗らぬジュンの仕事ぶりに何をモタモタしているのかと言いたげにだんだん声高になってくるのだが、自分自身は身体がついていかず、イライラする道理だ。
何とか要領も分かり出して能率も上がり出した一0時近くになったころ、黄色い声が弾んで、お茶の時間だと信ちゃんと紀ちゃんがお茶とお八つを運んで来てくれた。
田圃の畦で一服する気持ちは労働する者しか味わえぬ喜びもあることを知ったのだが、そのうち女の子二人も慣れてきたせいか、ジュンちゃん、ジュンちゃん、とタンポポをつんできては「綺麗でしょう」と言ったりして来だした。その姉妹はちょうどジュンの姉二人と似ていて、さぞかし姉妹が幼いころはこのような姿であったのだろうと思い浮かべながら、ふとその姉たちの安否も気がかりになったのは当然だった。上の姉は東部満州の第一線に軍人の妻として行っていたのだからなおさらだ。
そのなか、当時でも夏休みの宿題があったのだろう、信ちゃんに「夜に勉強を見てほしい」という約束をさせられ、引き続き稗切りに注力していた。
昼食を挟んで、やっと慣れてきた稗切り作業をジュンはひとりで黙々と精を出して進めたのである。伯父は昼からは安心したのか、隠居家の傍らの畠で蔬菜を手入れしたいとかで、夕方近くになって1回のぞきに来て、満足げに頷いていた。
夕食前に一風呂浴びて賑やかな夕膳についたときは、快い疲れと労働の後の満足感が交錯していたが、伯母のつけてくれた地酒の美味さは一入だった。百姓家の一日のサイクルが太陽とともに暮らすとは聞いていたが、初めて実感として味わったのである。
夕食後は、約束の信ちゃんの勉強を見てやることで、宿題帳の埋まっていない部分に目を通したが、なかなか頭のいい子で、さすがソヨノさんの娘だなと思っていたが、ちょうどそのころ流行っていた数学パズルを解かすと、小三の信ちゃんは小五くらいの力量があった。
伯父宅の第二夜はクタクタになった身体を横たえて死んだように寝たのだが、これが一年半の俄か百姓(!)の門出?になるとは夢にも思わなかったジュンの姿だったのだ。
進駐軍
残暑の厳しい毎日を稗切りに追われていたが、ようやく三反の田圃の苗を切り終えた頃、従兄にあたる喜八郎(七男一女であったオトンボ息子)が復員してきた。喜八ちゃんと呼んでいたが、宮崎県の都城付近の高射砲陣地にいたとかで、陸軍少尉であった。肝っ玉婆さんも末っ子の喜八ちゃんの無事な姿に接したときの嬉しそうな顔はやはり母親ならではであった。
喜八ちゃんの話では、鹿児島の鹿屋に上陸したアメリカ進駐軍が次第に九州北部に来るようになるとかであったが、どのようにして進駐してくるかはいまだに皆目検討もつかない。
喜八ちゃんは、もう一度都城まで荷物を取りに行きたいらしく、進駐軍が北九州まで上がってくる前に……と言い出していた。伯母はせっかく帰ってきたのだから荷物など「どうでもいい」と言っていたが、喜八ちゃんは「すぐにでも行く」と、ジュンも一緒に来てほしいという。
一応稗切りも一段落したところであったので、伯父は「荷物が多いのなら二人で行って早く帰ってこい」との示唆だ。
ところが八月末の昨今でも列車ダイヤは時刻表はあっても復員列車に大童で時間通り走っていないし、世界に誇れる正確無比の国鉄も戦後すぐでは混乱していた。台風シーズンも近いし、「それでは早く」ということになり、喜八ちゃんとジュンが鹿児島本線を一路南下したのが八月二八日だった。列車は三号の客車で狭く、決して快適な旅とはいえなかったが割合空いていた。それもそのはずで、南九州にはアメリカ進駐軍が続々と上陸しているという噂が、初めて敗戦を味わう日本人にとっては不気味であり、何も好き好んで南下する者はいなかった。
ようやく都城に着いたのは夕方であったが、喜八ちゃんは「今夜は知り合いのところに泊まる」というのに従った。その知り合いこそが彼の情婦(いろ)に近い女性だったことに驚いたものだ。都城では夜八時以降は外出禁止令が出されていたが、その晩はとにかく旅の疲れもあり、喜八ちゃんの彼女が敷いてくれた布団にもぐりこんで寝たが、別室での喜八ちゃんの行動は詮索するまでもない。陸軍の将校でハンサムな喜八郎少尉と現地の女性が結ばれていることはありえる話だったのである。
翌朝目が覚めてから喜八ちゃんの持ち帰る品物を荷造りすることだったが、別のところに大事な荷物があるということで二人で取りに行き、もう一晩都城に泊まった後、次の朝の列車で越前新宮へ帰るべく切符も買う予定で出かけた。
ところが大事な品物がある場所が、進駐軍が占拠して鉄条網を張り巡らしていた近くを通らなければならなかったのである。フィリピンから沖縄まで転戦してきた部隊が駐留していたのだが、自動小銃を抱えた二人の歩哨が、襟章をはずしているとはいえ、陸軍の軍服姿と海軍の略装姿のこちらの二人を「誰何」(すいか)してきた。
早口で訛りのある米語だったが、身振り手振りで何とか向こうのいうことが理解できた。要は「今晩一0時に歩哨の任が明けるから娼婦二人を世話しろ」というのである。喜八ちゃんに「そのような女性はいるのか?」とジュンは聞いてみたのだが、喜八ちゃんには心あたりがあるようなないようなことで、そのなか、ひげ面の米兵が「イエスかノーか」を迫ってきた。
民家の良家の子女は、戦々恐々で家の奥深く、息を殺して生活しているようなときだった。喜八ちゃんはその心得もあり、心当たりもあるようなことをいうので、ジュンは自分の頭のなかで自分の英語力を試すつもりで、「今夜一一時にこの場所にそのような女性を連れてくる」と返事してしまった。
明日をもしれぬ命のやりとりをしてきた兵隊が、女に飢えていることはジュンとしては分からぬでもなかったが、その二人の米兵が破顔一笑して、チューインガムやチョコレート、それに缶詰まで持っていけとくれだした。喜八ちゃんと顔を見合わせ、その場を繕いながら米兵と別れてから、これは大変なことになったと、帰りの道々「どうする」と彼女の家に相談に戻ったのである。
喜八ちゃんの彼女は、その経緯を聞いて驚き、すぐに身支度を整えて、「米兵との約束時間前に都城から逃げなさい!」と言い出した。何でもわけのわからぬ発砲騒ぎも毎晩のようにあるとかで、喜八ちゃんも“命あっての物種”と逃げ帰りに同意した。けだし、『食いものと女の恨みはこわい』とは三千年続いているとはいいながら大きな荷物を二人で担いで駅に向かったのである。
もう一晩の逢瀬の悦しむべき予定を変更せざるをえなかった好色男の姿は“あわれ”でもあったが、駅について北上する11時前の列車の切符は売り切れで乗れないと駅員から冷たくあしらわれたのだ。
しばし、二人は困惑のなかで『どうする』と頭を巡らしていたが、こうなったら改札口を通らず、ちょっと離れた貨物の出入り口からでも通り抜けして、無切符で乗り込もうと決心し、列車の到着を待っていた。幸い、思ったより早く列車が定刻に入ってきたのを見て、二人は素早く貨物入り口から構内の潜り込むみに成功し、『ヤレヤレ』と顔を見合わせたのである。
都の城を離れてしばらくして時計を見ると間もなく夜の一一時近くになりだし、例の米兵二人の髭面が甦ってきた。『騙された』と気づくのはもう少し後とは思うが、悪いことをしたという気持ちを、やれやれと思う安堵感で、数十分後に“荒れ狂う米兵“の姿を想像しながら、列車のゴトンゴトンと鳴る走行音が、二人を危険なところから遠ざけてくれる心地よいリズムになりだした。『後は野となれ山となれ』の心境で、大きな荷物に凭れ掛かって寝入ってしまったのである。
久留米を過ぎる頃目が醒め、無賃乗車が気になりだしたが、当時は検札は来なかったので、喜八ちゃんと「筑前新宮に着いたらどうする」との相談を始めた。田舎の駅ではあるし、その日の駅員にもよるが、もしかしたら顔なじみの者かもしれないと、喜八ちゃんは打って変わって落ち着いたものである。
博多を過ぎた頃から、筑前新宮に近づくにつれ、荷物をもって駅舎の反対側から降りる作戦で行こうと決定した。無賃乗車のスリルを味わい、大きな荷物を抱えながらでも、若い二人はさすがに筑前新宮到着時の行動は見事だったのである。よく考えてみると、喜八ちゃんにしてみれば、悪童の頃からそのあたり一帯が遊び場だったのだから、駅のホームの状況やら、どこに窪みがあって大きな荷物を隠せるかくらいのことは、諸葛孔明なみに作戦行動をとれたわけであった。
伯父宅に戻ってその晩の夕食時に、「都城脱出行」を面白おかしく話題にして酒のサカナにした。ソヨノさんは腹を抱えて笑っていたが、肝っ玉婆さんの伯母は、「ヨカタイ」とは言ってくれなかった。ジュンは、喜八ちゃんには都城に彼女がいるとは一切言わずにその後も口を割らなかったのは男の仁義と思っている。
その喜八ちゃんは、出身校の専門学校の先輩の口利きで、その後すぐに北九州のほうで無線の仕事に携わることになるのだが、田舎の風習というか、跡取り息子以外は百姓仕事をしないことが、ジュンにはそのときには不思議に思えたのである。
後に気づいたことだが、跡取り息子に先祖伝来の田地田畑を譲っていくのだから、その他の男の子は自活の道を求めざるをえず、喜八ちゃんは心得ていて、いち早くそのような道を求めて自分なりに素早く行動を起こしていたのだ。ジュンは都城から帰った次の日から、“俄か百姓”を続け、喜八ちゃんは一介のサラリーマンとして、弁当箱を下げて、八幡のほうに通勤ということで、夜は座敷に二人で枕を並べて寝る生活が始まったのである。
みかん山
“俄か百姓”の仕事は、晴耕雨読とは聞いていたが、年間を通じて山ほどあり、伯父はいくらでもやってほしいことを次々に言いつけてくる。
初めはとまどいもあったが、働き手はジュン一人であってみれば、百姓仕事全般をやらざるをえない。田舎は当然ながら汲み取り便所で大小便も溜まる道理で、ジュンは抵抗はあったものの、伯父の老骨を見てはおれず、ここで選り好みはできぬものと自分自身に言い聞かせて、肥溜めを担ぐことから牛小屋・鳥小屋の堆肥作りまで、今まで見たこともない百姓道具の使い方をいちいち伯父に教わりながら、百姓仕事は「まず臭いもの」との実感を得ながら、遮二無二働いた。
ところが、肥溜めを担ぐには、天秤棒の前後にその臭い桶を旨くバランスをとって運ばなければいけない。それも長い距離を田畑の畦道を通って、みかんの木や野菜畑に撒くとあっては、その柄杓の使い方も並たいていのものでなかった。空になった臭い桶を近くの小川で藁を使って洗うこともしなければならない。
小便だけのときはそれほどでもないが、大小便の混ざったものは、水洗便所しか知らなかった都会育ちのジュンにとっては、‘えもいわれぬ’代物だった。なるほど、喜八ちゃんがいち早く就職した理由の一つがコレ!であったと気づいたときには『時すでに遅し』であった。
一人小川に沿って行き帰りするジュンの姿を部落の人が垣間見て、「あれは誰ナ?」「クラさんの息子タイ!」という会話を耳に挟みながら、百姓一年生は伯父の言うとおり「何でもやってみよう!」と臍を固めていた。
九州弁は、祖母、両親が時折使っていたので違和感はなかったが、自分自身がしゃべることは難しく、したがって必要なとき意外は無口にならざるをえず、「クラさんの息子は無口で働き者バイ!」という評価になりだした。
日本語の標準語は東京都ということだったが、満州育ちのものにいわせると、全国から満州にわたった種々の地方語が入り交じり、洗練された日本語が本当の日本語のような気がしていた。東京の言葉もベランメイ調のところもあり、戦後の評価でも札幌の言葉が洗練された日本語という人もいるが、満州と北海道は開拓の土地としての共通点があったのだから似たような条件で日本語がすっきりしたものになったのだろう。
九月の中旬ともなれば、ミカンの早生ものが熟れ始める頃だが、二0町歩もあるミカン山は夏草がぼうぼうと生えていて、手入れがまったく行き届いていなかった。
八月三0日にマッカーサー元帥が厚木に飛来し、博多の町にも進駐軍のジープが走り出すころには、ジュンはミカン山の雑草との戦いを始めていた。
ミカン山の木にも、古木と若木があり、温州ミカンが主力だが、ネーブルや三宝柑、蓬莱橘、ポンカン、金柑等、初めのころ、いろいろな種類をいちいち伯父から教わっていたが、そのうち嫁のソヨノさんも産後の体が元に戻って、一緒に働きだした。
口八丁手八丁のソヨノさんから、鍬の使い方から始まり、草をとった後のミカン畑の畝の仕上げ方(排水を考える必要があった)、追肥のやり方、ミカンの消毒まで、教わることは山ほどあった。一一月の収穫期には、全山のミカンを農協経由で出荷するとのことであった。
牛遣い
秋口にはジャガイモ(秋ジャガは春ジャガほど収穫が見込めなかったが…)でもたくさん作らぬと、伯父宅を頼りに復員、引き上げてくるであろう身内の数を勘定すると四〇人は下らぬということであった。そのためには空いている田畑を鋤き返して、ジャガイモはもちろん、麦も小麦、裸麦を問わず、「種のあるだけ蒔け!」と伯父はいう。
となると、ジュンは牛を使って田畑を鋤かねばならないという羽目になったのである。いろいろ教えてくれたソヨノさんも、牛の使い方は“伯父から習え!”という。伯父は前述の通り、口は達者でも身体が動かないではどうしようもない。
ジュンは、朝一番から牛の世話をすることから始めさせられた。動物はみなそうで、餌を与えることからである。まして牛は角が生えていて、初めての者には「コワイ」という先入観があり、ジュンも強がりは言っていても相手が悪い。
初めはおそるおそる近づくと、牛は頭を下げ、荒い鼻息を立てだすのだ。伯父と牛小屋に入って何遍か牛の世話をするうちに、牛のほうも他家の者でないことが分かりだすのだろう。伯父がもう慣れてきただろうから「首筋でも撫でてやれ!」というが「ハイ、そうですか」とはすぐにできなかった。その牛は牝牛であったが、可愛い眼はしていても、都会育ちのジュンが子犬や子猫を相手にするようなわけにはいかないのだ。
ソヨノさんも牛だけは苦手であったらしく、「ダイちゃん頼む!」となった次第だが、「習うより慣れろ!」とのとおり、そのうち牛のほうから擦り寄ってくるようになり、牛に対する掛け声なども独特のものを憶えるにつれ、不思議と牛は思いのままに動くようになってきた。
いったん、自信がつくと今度はどこに行くにも牛を連れて出掛けだした。ミカン山の手入れには牛は必要ないのだが、日陰のミカン山の間道づたいに繋いで新鮮な草を食べさせれば、牛小屋まで餌になる草を刈って担いで帰る手間も省ける。夕暮れ近くになると、つないでいる牛も満腹を持て余し、そのうちに「モウ!モウ!」と甘え泣きを始め、牛小屋に帰りたい意思表示をするのだ。
ジュンは少年の頃に関東軍の兵隊が馬を飼い慣らす方法を話してくれたことを思い出しながら、牛の首筋をたたき、声をかけてやり、綱をほどいて帰路につくという日々が続いた。
女越し
進駐軍が博多の町から時折時折郊外にあたる立花山附近にも、ジープを走らせて来るようになっていたが、案に相違して治安も維持され、子どもたちも二学期の勉強にいそしみ出した頃、天草や五島のほうから‘女越し’が来るという。ソヨノさんの説明では、戦前には、男越し女越しが必ず二~三人は来てくれていたそうで、伯父宅には今年は一人「シヅ香ちゃん」という娘が九月には来るとのことだ。
何でも、部落全体の農家にその女越したちが集団で来て、一年契約でそれぞれの家に住み込み、盆と正月は帰省するが、あとは一日、一五日の月二日間の休憩日のほかは、朝早くから夜遅くまで農作業をするという。年格好は一六歳~二〇歳くらいのものが大半であったようだが、女越したちが三〇人近くくれば狭い部落の様子も一変するわけで、ある日、ソヨノさんが納屋の片づけをして、そのシヅ香ちゃんの住まいの部屋作りをしてくれといいだした。ジュン自身は座敷で寝起きしているが、女越しともなれば納屋住まいであるわけだ。
わけのわからぬ農機具が出てくるたびに質問しながらの片づけをしたが、どんな娘が来る者やらの興味も手伝って、三〇日の女越しの来る日が楽しみになりだした。
免 生
牛を使っての畠や田の鋤き方を伯父に教わりだした頃、一通の葉書が「第二復員局」名でジュンに届いた。葉書の内容は、一〇月一日に‘福岡県庁に出頭せよ’というものであった。
さっそく糸島郡の伍長補にも手紙を書き、兵学校在籍の福岡県出身者が集まるとなれば、伍長補にはぜひ会いたい気持ちとなり、時間を示し合わすことにしたのだ。
女越したちが到着するその日、一〇月一日にジュンは西鉄の津屋崎線を利用し、新博多から市電で県庁前まで行き、伍長補との約束五分前に県庁で待っていた。
伍長補も、反対側の姪浜から国部隊の三号八木田生徒を伴って、約束通り再会を果たした。
1ヵ月半にもならない日々を久しく感じたのだが、おのおの180°違った環境に突入していたのだから無理もない。
第二復員局(元の海軍省)の出頭の用事は後回しで、伍長補に昨今どうしているのかを尋ねると、即座に「家業の漁業を手伝っている」との返事。何だ、百姓に漁師か…と大笑いとなったが、あれほど偉そうにしていた伍長補が玄界灘で魚群を追っているとはと、毎日海に出ていることに嫉妬すら感じるとともに、俄か百姓と五十歩百歩と安心もした。
出頭命令の趣旨は、一〇月一日付けで『海軍兵学校生徒を免ず』というたった1枚の辞令と、寸志に過ぎないなにがしかの手切れ金(もちろん恩給ではないし、出頭に際しての旅費程度)をもらった。伍長補とは、顔を見合わせ敗戦とは情けないと思いながら、そのまま分かれるのはもったいないとその足で大濠公園まで行くことにした。
八木田生徒も含め、三人で大濠公園を一周する間に、交互に、日本の将来は、若者の前途は?と語り歩きした。福岡高等学校の近くに来て、話に登ったことが、陸士の61・62期生はおのおの在任の府県ごとに、高等学校の編入試験の受験資格があるという。募集人員は高等学校により違うとかで、それぞれ若干名としか分からなかったが、八木田生徒は福高を受けてみようと言い出した。
親元がしっかりしていて、編入試験を受けられる内地の出身者は羨ましいとジュンは思って、「伍長補はどうするのでありますか?」と問うと、伍長補は来春京都大学を受験するのだとの返事であった。なるほど、それぞれ向学心に燃えているのはわかったが、ジュンはというと、まったく白紙だったのである。
なんでも、伍長補たちの七五期は、さきほど貰った辞令では、兵学校卒業の形(実際に終戦直前の在学当時、一〇月繰上げ卒業が噂されていた)をとっていて、来春には修業することができるということだった。
夕焼け空を仰ぎながら、三人は大濠公園前で市電に乗り、東西に分かれるべき帰路に来たが、米兵と*2パンパンが次々に来るのに、ジュンたちは次第に腹が立ってきていた。戦時中、大和撫子といっていた日本女性が、厚化粧して派手な格好で米兵とデレデレと腕組みしているのに、今まで‘日本の将来は?’と論議していた若者三人はむしゃくしゃしてきたのだ。
夕闇迫る公園の水際に、なお一層のデレデレ組みがいたのだが、そのパンパンが我々を振り向いて、一言二言嫌味の言葉(要は米兵は格好いいが、日本男性は貧相だとの表現)を吐いたのが3人を怒らせた。三人互いに目配せをして、そのパンパンと米兵を池に突き落とした。「ヒエー」とか、「オーノー」とかの悲鳴らしき声を後に3人は早足で走り去ったのだが、池に落ちた二人はさぞかし冷たかったろう。三人はウップンを晴らして市電の停留所まで辿り着き、再会の日を約して東西に分かれたのである。
若気の至りとはいえ、九州男児は正義感がある上に、いかに手が早いかの証明みたいな出来事だったが、そのあと突き落とされた二人がどうしたのかは知らないけれど、米兵にはちょっとだけ気の毒だった気がしていた。たった2文字の「免生」がもたらした予想外のハプニングを残して、立花山の懐に戻ったのだ。
加代ちゃん
伯父宅に帰宅して、初めてシズ香ちゃんという女越しを紹介されたが、割合体格が良い娘で、一九歳だという。明日から一緒に野良仕事をするのだからと挨拶を交わしたのだが、光ちゃんのイメージには到底及ばないにしても、今夕のパンパンに較べれば、殊勝な娘だと思ったのが第一印象だった。
次の朝早くに、伯母が「加代」が帰ってくるので受け入れの準備に忙しいといって、そわそわしていた。伯父伯母には七男一女があることは先刻承知していたものの、加代ちゃんがどこでどうしているかなど、尋ねてもいなかった。
何でも、近隣の部落のサラリーマンに嫁入りしていたが、子どもに恵まれず、
“結核”を患って離婚し、軍関係の病院で療養中だったが、その病院も敗戦によって閉鎖されるので、いったん家に戻った上で古賀の県立療養所のベッドが空くの待つのだということだった。
確かジュンが小学校五年の夏に加代ちゃんが彼女の友人と二人で大連の家に1週間ぐらい遊びに来て、ジュンの姉二人と合わせて4人できゃあきゃあ言ってかまびすしかったのだが、とりわけその加代ちゃんは笑い転げるタイプであった記憶が甦ってきた。
旧軍関係の病院が差し回した車で、二人の元衛生兵らしき者が送ってきたが、奥座敷に納まった加代ちゃんと再会したのはお昼時のことであった。しばらくの間、加代ちゃんと会話もしたが、大連での彼女の面影はなく、病身の肌だけは透き通るようだったが、痩せ衰えていた。
伯父夫婦にしてみれば子沢山のなかの一人娘で、それこそ‘大事大事’で育てられたのだろう。病気療養中の身とはいえ、その後の加代ちゃんの我儘には閉口させられたのだ。
昼からもシズ香ちゃんと一緒に野良仕事に出かけたが、一六歳のジュンと一九歳の女越しとの組み合わせは、歳からいえば年上の女であり、一応主従からいえば、ジュンは主の側になるので、うかつなことはいえなかった。
夕方戻ってみると、さらに一人の女性に紹介された。初対面の彼女は伯父の六男の嫁の‘勝子さん’という女性で、あとあと一七世紀の中国の美人だと評していた女性だったのである。六男の正則は、父中介を頼って渡満し、撫順の工業学校を出て、撫順炭鉱に勤め、ジュンには、良いことよりも悪いことを教えてくれた、貴重な従兄だったのだし、アイスホッケーのスティックをプレゼントしてくれた主だ。その嫁さんともなれば無視できぬわけだが、勝子さんは結婚式を内地で終戦間際に挙げ、正則さんの後を追って渡満しようとしたときに終戦を迎えたのだった。それまでは、実家の福岡の箱崎で両親ともに過ごしていたのだが、加代ちゃんの看護を頼まれて、嫁入り先に来てくれたわけだ。
ジュンにとっては、いっぺんに三人の女性が増えて、その人間関係はややこしいものだったが、その勝子さんの献身ぶりは見事なものだった。良家の子女であるゆえに百姓仕事はしなかったものの、加代ちゃんの看病のほかは、ソヨノさんの手伝いから、ジュンの下着一切の洗濯をしてくれた奥床しい女性だった。
後年、ジュンが嫁にした順子にとっては叔母にあたる勝子さんを含め、家族構成はますます膨らんだが、賑やかになってそれ相応の活力みたいなものが出てきだした。ただし、よく考えてみるとジュンの母の里‘三代’の存在が、その後のジュンに蜘蛛の巣みたいについて回ったのだが、その時の本人はまったく気がついていなかったのだ。
喜八ちゃんはそのころから和白に下宿していたので、男三人(伯父、ジュン、乳飲み子)のほかは、すべて女性の女護ヶ島にいる感覚で、次の日からも野良仕事に精をださなければならなかったのである。
想夫恋
二〇町歩もあるミカン山の手入れは並大抵ではなく、始めの頃手入れしたところが全部回りきれない間にまた次の草が生えだしてくる。ジュンは女越しと時々はソヨノさんも入っての労働力だけでは不足を感じながら、収益性の高いミカン畑の手入れを優先しようと提案し、それを実行していった。
その部落三〇世帯の中には、労働力も逐一戻ってきた家もあり、遡れば遠い親戚関係であっても、他家に応援を出すことはなく、それぞれが自らの田地田畑を守るのが精一杯で、一番大事なことはやはり世帯主の跡取りが帰ってくるかどうかであった。
ジュンにとっても母の里からいえば、本家や新家もあり、それぞれが競って、見違えるように荒れていた田畑やミカン山は整備されつつあるなかで、優劣がつきだすのはしかたのないことであった。ソヨノさんにしてみれば、亭主である跡取りが帰ってくるのを一日千秋の気持ちであったのは明白で、野良仕事の合間に働く手を止めて思いを馳せていたことも縷々あった。
安全な済州島での終戦と聞かされてはいたが、内地本土にいた他家の大黒柱が次々に復員してくると次第に思いが募るのであろう。黒田節のなかにあ“想夫恋”というところがあるが、まさにソヨノさんのその頃の気持ちが歌詞そのものだったような気がしていた。
ミカン山の手入れもさることながら、ますますじゃが芋畑を作らねばと伯父に言われだした折に、男女の性の問題が部落内で持ち上がりだした。
女越し三〇人近くが入り込んでいるので当然といえば当然だが、広いミカン山の一角で主従関係ながら男と女が一日中一緒にいるわけで、密室ではないにせよ、その気になれば、それなりのことはいつでもどこでもできる。
陰口に、三〇世帯の一軒の家の主婦は、女越し上がりが跡取り息子に見初められて住み着いたのだと言われていたし、女越しの立場からいえば、「玉の輿」的な結果になるわけで、ジュンもミカン山でシズ香ちゃんが見え隠れするところで小用を足す姿を何度も見ざるをえなかったのである。
通称花屋と称する家の次男坊息子でジュンより一つ年上の男が、その家に女越しとして入った女とできあがってしまった。とにかく、家格がどうのこうのを田舎の因習や世間体のうるさいところで、その話は電光のように拡がったから、“さあ大変!”となってきた。
ジュンはさっそく夕食の後に伯父に呼ばれ、「お前はそのような軽率なことはあるまいな」と念を押されたのである。伯父いわく、「クラの大事な息子だから…」と、やはり兄妹愛というのか、ジュンの母親に対しての心遣いを示していた。
もちろん、ジュンも男であり一六歳ともなればそのような気にならぬでもなかったが、中学の二年ごろから父親に「男は何でも経験することはよい。ただし、自分の蒔いた種は自分で刈れ!」と言われていたし、母親からは「女は命をかけてくるからこわいもの」と教えられていた。ジュンは伯父に対し、両親からの教訓を守り、伯父に迷惑がかからぬような言動を心がけている旨、明快に返事したのである。
それから後も毎日ミカン山では、女越しの挑発的な行動は続き、特に独身の男がターゲットだったようだが、正直なところ、ジュンは女の性というより、身体の構造上小用を足すときのハンディが問題で、それを挑発行為に思ってしまう男性側のほうが、よっぽど問題だったような気がしていた。要は男の自制心に関わることであり、ジュンはそのような気が起きるときにはいつも母親の顔を思い浮かべることにしていたのだ。
麦播き
草ぼうぼうの畠を耕して麦播きをし、秋じゃがを植える時期が来た。伯父から教わった方法で牛の後ろに鋤をつけて歩かせれば、それなりに畠を耕すことになるのだが、どうも鋤の先の深さ、角度が思うに任せずうまくいかない。
伯父は牛の進行に合わせて片手で鋤けるというのだが、そうは問屋がおろさず、肩や腰に力が入っていたのか、一反の畠を耕した頃にはジュンの身体はあちこちが痛くなっていた。
ソヨノさんと女越しの二人がその後を手慣れた鍬さばきでウネを作り、種播きをしていく。初めの日はジュンがモタモタしていて二人から追われる立場だったが、二日目からは多少要領が呑み込めて伯父の言うとおり、本当に片手だけですいすい鋤けるようになりだした。
上手になるに従い、今度は牛が勝手に「道草を喰う」のに叱声をとばすようになって面白いほどだ。牛は絶えず口を動かし続けているもので、特に土手に沿ったときや、反転するときの畦に来ると、前後左右にある口にするものはなんでも、旨いタイミングで草を食むのである。
小学校高学年の頃、よく母親に、学校の帰りに「道草をせず、まっすぐ帰っていらっしゃい」といわれていたのを思い出し、この牛の姿が本当の“道草を喰う”ということなのだな…と変なところで感心していた。
要は、海軍の甲板掃除と同じ「廻れ!廻れ!」を牛とともに田圃や畠でしているわけで、ドンドン鋤いて後を振り返ると、黒々と鋤きあがった広い田畑はそれなりに美しさを感じるのだ。 ところが百姓仕事はお天道様に左右されることを忘れてはならない。あまり調子を出して次々に鋤きすぎても、雨が降ってきては何もならず、そのときはジュンも手を休ませて、慣れぬ手つきながら鍬をもって二人を応援していた。
麦播きは畝を作った後は、中打ちをする幅をあけて、二条にフラットな面を作り、種を蒔いた後、堆肥を薄くかけて、その上から堆肥をさらっとかぶせる。じゃが芋は種芋の大きなものを新芽のある数だけあらかじめ包丁で切っておいて、灰をまぶしてから等間隔に植え、畝は盛り上がった形にするのだ。伯父の指示通り、とにかく田圃といわず畠といわず、麦播き、じゃが芋植えの毎日を繰り返した。
そうこうしているうちに、ジュンは1通の手紙を八木生徒から貰った。文面をよく読むと、出身中学校の成績証明書を持って行く必要があるが、一〇月末に福岡高等学校に編入試験を受けに行こうとの誘いの手紙だった。その折に折角だから、知り合いの写真館があるので記念に兵学校の第一種軍装で一緒に撮るため六本松(福高のあるところ)まで出向くようにとのことだ。「貴様の出身中学の同期も村田生徒も一緒だ」とも書いてあった。
その日の夜に、ジュンは伯父に相談をしたのだが、伯父は即座に「お前が高等学校に通うぐらいの学資は何とでもなる」との返事だった。
民主主義
正式な募集要項などは何もなく、ただ定められた日に出頭して面接口頭試問だけであったが、申し込みしなければならない。伯父には悪いと思ったりもしたが、伯父宅に通いながら、休日には百姓の手伝いはできるとの一人合点で、八木田生徒に返事を書いて、寺田生徒と同じ条件で、一緒に手続きをしておいてもらうことにした。別に学科試験はないにしても、一〇月末までは二週間しかなかった。一ヵ月半近く、新聞だけは読んでいたが、その気で読んでいなかったので、次の日から新聞の隅々まで目を通すようにして過ごした。
本家の長男が、福高-九大医学部の卒業だったので、そこから参考書らしきものを借りてきたりして、野良仕事の合間と就寝前のわずかな時間で心準備をしていた。
その頃、進駐軍向けのネーブルが高値で売れるとの話が広がって大忙しの収穫時期に入り、ネーブル畑に日参しだした。全体の植え付け面積は圧倒的に温州みかんだが、ネーブルを収穫する際、当時は自動選別機があるはずもなく、鋏で切るときから、大きさ、色合い、疵の有無で区分けし、りんご箱に収納していた。進駐軍の兵たちは、ネーブルしか食べないとかで、異常な高値で売れて、新家の伯父宅はホクホクであったようだ。
ジュンは隣り合わせの新家のネーブル畑にも入り込んで手伝ったりもして、大玉のネーブルを齧ったり、女越しを冷やかしていたりしたが、何といっても農家は、収穫期には喜びに満ちた独特の華やいだ雰囲気があるのだ。
ネーブル狂想曲が終わりに近づく頃、福高編入の試験日が迫ってきた。
ソヨノさんは、気を遣ってくれて、面接試験では容姿を整えることが大事と、散髪に行くようにとのことで、和白の理髪店まで自転車を飛ばしたり、下着は…ワイシャツは…靴下は…と、勝子さんと二人掛りでいちいち持ち物検査をされている錯覚に陥るほど面倒を見てもらった。受験のあと兵学校第一種軍装で記念撮影もするので、アイロン掛けやらもしてくれ、一騒動の後に福高出頭の日が来た。大連一中の頃の成績を証明するものは一切ないが、とにかく面接試験に出かけたのだ。六本松の福校の正門附近は、いかにも陸士、海兵に属していた名残の略装風の服装で、それらしき面構えの連中が、三々五々杉の木陰に待機していた。
受付番号にしたがって次々に面接室に入っていくのだが、内地に出身校のあるものは、成績を証明する成績表を包んだ風呂敷を皆持っていたが、ジュンと寺内生徒だけは手ぶらであった。
いよいよジュンの番になり、面接室に入ると五人の教授がズラリと並んでいて、「出身中学と成績を証明するものは…」との問い掛けを受けた。ジュンは大連一中出身を告げて、「成績を証明するものは一切ない」旨を申告せざるを得なかったのは当然だった。当時から大連一中出身者が福校に入学した先輩はまれで、大半が五校に流れていたのだが、教授たちの一人が「大連一中は優秀な進学校ではあるが、成績証明がなくては…」と当惑顔をされた。
次の質問は、「将来何を目指すのか?」とのことだったが、返事は「戦後間もないことで確たる目標ではないが、外交官を目指す積もり」と答えた。それに対して興味を覚えた教授から「なぜ?」と問われ、ジュンは「理由をいうと長くなるけど…」と前置きして、元満鉄総裁の杉岡洋右が日本の外務大臣として活躍した頃に、ジュンの父は総裁付けであったことで、小さい頃から影響を受けていたことや、*1ABCD包囲陣の経済封鎖を受けた原因の日独伊三国同盟を盾の仏印進駐が開戦に追いやった事実、そして敗戦という図式で、結局は外交力の弱さが今日の日本の壊滅を招いたものだと、新聞の社説を引用しての返事をした。そして多少なりとも戦後の復興には、外地育ちのジュンのようなものが役立つはずだと見解を述べ、戦後の復興は貿易にしかないと主張した。。
もう一人の教授が、「それでは民主主義とは何か?」との質問を浴びせてきた。ジュンは来たなと思いながら、小さいころ読んだジョンスリーやリンカーンのことを思い浮かべながら、「民主主義とは一言で言うならば、リンカーンの有名な一言“for the people by the people of the peopleだ」と今度は恩師の沢先生のまねをして返事をした。
ようやく解放されて部屋を出たときに、八木田生徒、寺田生徒が、「えらい長かったな…何を聞かれた?」と交互に心配してくれたが、ジュンはそんなに長い時間面接室にいたような気はしなかった。皆それぞれ面接が終わって、3人で写真館に記念の撮影に行ったのだが、その写真は今も大事にアルバムに収まっている。
帰りの道々で、焼け野原の博多の街を進駐軍の兵隊がジープを飛ばし、ヤミ市のところでは戦災孤児がうようよしている。そして隊務が非番なのだろう米兵たちが歩いている姿を見かけて、それらの戦災孤児が“チューインガム、チョコレート”を貰うべく、せがんでいた。さきほどの福高教授たちに受けた試問の民主主義の実像は“チューインガムとチョコレート”ではないのかと現実の世界に直面させられていた。
夕暮れ時に伯父宅に戻って、伯父から「どうだった?」と聞かれ、正直に“それなり”の状況報告をしたのだが、明日からは稲刈りをしなければならないとのことで、早く就寝することにしたが、その夜は寝つきが悪く、いろいろと頭に思い浮かべることが多すぎたのである。
稲刈り
わずか三反しか作付けしなかった田圃も、一株一株を丁寧に刈る作業は、実際に手間隙がかかり、ジュン、ソヨノさん、女越しのシズ香ちゃんだけで、やはりたいへんな仕事である。
稗を切って廻ったことと較べれば、そう気を遣う面は少ないものの、手に持てるだけの六株を一束に刈って、次々にかがみ腰で前に前に行くわけだが、これも要領がつかめず、ソヨノさんと女越しに置いていかれる始末で、ジュンは「なにくそ!」と負けず嫌いを発揮するのだが、手先の器用さにはハンディがありすぎた。
百姓仕事の第一印象が“臭い”ということだったが、二番手には“腰が痛い”が実感となって、「アー、腰・腰」という九州訛りの言葉が言い得て妙だった。
稲刈りは、ただ刈るだけではなく、刈った稲の束を嵩(去年収穫した稲の茎)で六株ほどくびり、田圃でベタ置きして乾かし、しばらくして、今度は大束(六株の束を二〇箇くらい)に一抱えのものにしてから、木の棒を組んだ稲掛けに正式に乾す作業も必要だ。
稲掛け作りは男手でやるのが常で、ジュンの出番にならざるを得ず、納屋の二階にたくさんある棒を卸すことから、馬車に積んで近くの畦まで持ち運びしてから、今度は“カケヤ”と称する四十七士の討ち入りみたいな大きな木槌をもって、田圃の近くに稲掛けを組み上げるのだ。
部落の三〇世帯が一斉に稲掛けに稲を乾し終わるまでの一〇日間ほどは、どことも労働力総動員だが、小さな子どもでも稲の束を作るための嵩を必要な場所に予め配っておいてくれても作業効率は上がる理屈で、そのせいもあって、農繁期には黄色い声が弾むこととなる。
その年の稲の実り具合はそれぞれ違い、農耕民族の日本人が神に豊作を祈ると言う意味が、一連の作業を通じてジュンは初めて実感した。
稲掛けで稲を乾かしている間に今度は霜が下りる前に温州ミカンを収穫しなければならない時期が来ていた。とにかく収穫時期は農繁期と称するだけあって、労働力の足りないところは部落のなかでも取り残されるわけで、ジュンもよそに負けてはおれぬと頑張る気持ちはあっても、次々に後塵を拝することだらけであった。
太三(たそう)さん
温州みかんを毎日毎日ちぎって馬車一杯に積んで農協に運んだり、自前の貯蔵庫に入れ込んで保存(翌年三月初旬ごろまで逐次売り捌くと高値期待もできた)したり、大忙しの日が続いたある日の朝一一時ごろ、勝子さんが息せき切ってミカン山に朗報を告げにきた。太三さん(ジュンの従兄、伯父宅の跡取り息子)が帰ってきたとのことである。その一言を聞いたソヨノさんの喜びの顔は、字句では表現できない笑顔だった。とるものもとりあえず、ソヨノさんは勝子さんと転ぶように山から下りていったが、ジュンもその後を追って早足で戻った。
太三さんは日焼けした顔で元気そうで、初めて見る乳飲み子を抱いて、いまだ軍靴も脱がず、たたきのところで本家や新家からの祝福の挨拶を受けたりで応接の暇もない様子だった。昼食時には残り物を総ざらえした感じの手作りのご馳走で無事生還の祝杯を上げた。
小1のときに会った太三さんよりは、少し頭も薄くなっていたが、持ち前の美男子には変わりなく、ひさびさの対面だったジュンが野良仕事を手伝っていることに感謝してくれた。
太三さんは済州島では防空壕掘りと小飛行機用の飛行場作りに明け暮れていたそうで、百姓仕事の延長みたいなことばかりしていたとのことだった。
昼食後はすぐに、「ミカン山に行く!」とさすが跡とりらしく言い、それではと四人で出かけていったが、太三さんは兵役わずか半年ほどであっても、その間の気がかりと嬉しさが入り交じった気持ちだったようで、農作業の合間の言動にもそれが表れていた。
さすがは跡とりらしく、何をやらせても器用で手早くそつがなかったし、「ジュンちゃん!このミカンを食べてみんしゃい…うまかバイ」と言われて口にすると、たしかに太三さんの千切ってくれるものはおいしかった。
あとで教えられたことだが、昔は山猿がアケビが熟れる頃によく口にしているのを故老が見つけてその旨さを知ったそうだが、もうその頃にはミカン山には猿は出没しなくなっていた。狸や兎は時折いたのだが、なかなか人目に触れることはなかった。太三さんから「これは狸道、これは兎道」と教わった。兎道には確かに糞があるが、狸道にはないので質問すると、狸は溜め糞の習性があるのだという。
小さい頃から自然児として育った太三さんから、農作業はもちろんのこと、田舎の生活、すなわち植物・動物・地質・気象に至るまで、教わることは一杯だった。
一家の大黒柱が帰ってきたその日からは、ようやく家中に安堵感がでてきて、伯父夫婦も名実ともにご隠居さんになるわけで、秋の夜長とともに伯父は長火鉢に炭火を入れて、長い煙管でキザミ煙草を吸いながらジュンに話しかける夜が多くなってきた。
しかしながら口数が増えるごとに蓄えている玄米もそろそろあと何俵と勘定できるほどになると、農家といっても代用食でつながなくてはいけない。博多の街中では娘の晴れ着を手放してまで闇米を買い求めて来る人も増える頃、伯父宅では他人に分けるほどの玄米はなく、来春には三町歩の田植えをするだけの種籾は絶対確保しておかなければならず、小麦粉を利用したいわゆるダゴ汁(団子汁が訛った九州弁)が多くなり、芋類と合わせて、味噌味、醤油味と変化をつけてのソヨノさんの工夫も日増しに多くなってきた。
今考えると結構旨い代物で、飽食時代の若者にはときどき食べさせればいいと思っている。
ヤギ乳
奥座敷に伏していた加代ちゃんを「ベッドが空いたから」と結核の療養所に入院させる日が来た。その朝は、肝っ玉ばあさんとソヨノさん、勝子さんの3人がかりで準備がたいへんだったが、今ならタクシーで行くのが当たり前のところを、やおら馬車に布団を敷いて病人ができるだけ揺れに耐えるように寝かしての出発となった。
御者は当然「ジュンちゃんお願い」となって、古賀までの距離約六キロメートルをこれが本当の牛歩で二時間以上かかって工程を進めた。
平安朝の頃の牛車にお姫様を載せて京の大路を往く姿を夢想して、我ながら苦笑を噛み殺していた。電車で先回りしていたソヨノさんと勝子さんの待つ療養所に辿り着いて任務終了となったが、牛が足を痛がっているのをなだめての帰路のほうが、ジュンにとってはたいへんだったのである。
その日の昼過ぎ、福岡高等学校から封書が届いていた。開いてみると「口頭試問の結果、貴兄の素質は十分認められるが、編入試験枠が少なく、中学の成績簿がないままの入学は今回教授会で承認に至らず…」とながながと書いてあった。要は「非合格」通知なのだ。
それを見てジュンは、「人を見る目のないボンクラ教授連のいる福校などに誰が行くものか」と悔し紛れにその封書を畳に叩きつけていたが、信ちゃん、紀ちゃんがジュンの表情におびえていたのが、四五年を経た今でもつい最近のことのように思えるから不思議だ。
ところが後年ジュンが結婚する相手の岳父が福高-九大卒であったことは神様のいたずらでなくてなんであったのだろう。
次の日の朝から、勝子さんと一緒にヤギの乳絞りが日課となりだした。一人娘の加代ちゃんに毎朝絞りたてのヤギ乳を勝子さんが届けるための作業が、肝っ玉ばあさんのたっての願いで、昼夜を問わず続いたのである。
ヤギはおとなしいには違いないが、乳を搾る間じっとはしていないので、後の片足を杭に縛りつけ、首筋を摑まえておかなければ勝子さんがうまく絞ることはできない。
ある朝はヤギのご機嫌が悪く、ほとんど搾り終わる前に暴れて、せっかく絞った乳の桶に反対側の足を突っ込んだことがあった。勝子さんが、「これでは加代ちゃんに飲ますわけにはいかない」と半ベソをかいていたが、ジュンは「何も土やヤギの毛や糞が混ざっても毒にはならぬ」と言って、二人してガーゼで漉してからいつもの水筒に詰めたことがあった。
さぞかし、その日のヤギ乳は「旨かったろう」と今でも苦笑を禁じえないが、天命というのかその加代ちゃんは古希を過ぎて今でも健在なのに比し、看病を続けた勝子さんはすでに故人となって久しいのだから神様のなされようは不公平だ。
その古賀療養所は海岸に近い杉林に囲まれた閑静な場所にあったが、今でもその海岸に沿ってゴルフコースがあり、国立福岡東病院と格が上がって存続している。
正 月
稲刈りとミカン狩りが済んだ農家はいわゆる農閑期となるが、その頃から太三さんが復員したことで伯父一家では気分的に余裕がでてきて、秋の夜長をジュンは太三さんと囲碁を一石打つようになっていた。
小学校低学年ごろから、父仲介が時折自宅に碁敵を招いて一二.五畳の座敷で石を囲んでいたのを、その横にちょこんと座って見よう見まねで憶えていたのだが、誰からも正規に教わったことがないまま、太三さんと碁力はほとんど一緒くらいだったので、夕食時の食べ終わりに近づくとどちらからともなく仕掛けて、座敷のド真中に碁盤を挟んで座る夜が多くなりだした。
昼間は堆肥作りや藁仕事と称して女越しは藁を綯うのだが、藁を扱う仕事は手先が器用でなくてはいけないし、そのうえ手がカサカサするので、ジュンは堆肥作りに専念した。
切り返しといって、何回も天地を繰り返すことにより、醗酵した堆肥がよりよく細かくなるのだが、はだしで中心部分を切り返すときには、足が火傷する位熱かった。小説で読んだことがあったが、遊牧民の蒙古族が冬場は住居の包(パオ)の下に、羊の糞を敷き詰めて暖をとると書いてあって、“なぜ”と思っていたが、一連の堆肥作りをしてみて、“なるほど”と体験の尊さを実感していた。
一二月に入ると伯父の口から迎春の準備があれこれと示唆されだして、その度に太三さんはいちいち頷いていたが、ジュンには意味不明なことも多かった。
特にその頃から稲の脱穀とか、精米所で玄米にしてもらうとかの仕事もしなければならず、稲刈りの時に出した稲掛けの後始末で、屋根裏に収納するやら、逆に餅搗き臼や杵を出してきて洗うやら、とにかく目に触れるものすべてがジュンには珍しかった。
太三さんは、いちいちそれらの物が曽祖父時代からの代物だとか、使い勝手を教えてくれたが、都市生活者がまったく知らない部分が数多くあり、ジュンの母が口癖のように一粒のお米でも「百姓の苦労を思って粗末にしてはいけない」と言っていたのが身に沁みてわかりだした。百聞は一見にしかず-とはよく言ったもので、口を酸っぱくして何十篇言われてもピンと来ないことでも、実物を目の前にすれば一遍で分かる道理だ。
ますます押し詰まったクリスマス頃から、迎春のための準備が始まりだした。
博多の街では、クリスマスで浮かれた米兵たちの行状がまことしやかに伝わってくる頃には、農家のほうでは、煤払いがどこの家でも始まり、二八日には餅つき、29日にはブリを一匹ぶら下げ、三〇日には神棚・仏壇の掃除、お供え物等、門松はお手の物で竹薮から切ってきた竹とミカン山の周辺から調達した松で、お手製の立派な門松ができあがるのだ。
女の仕事はこれまたいろいろあって、祝い膳やら屠蘇を祝う小道具類を納屋から出して、1年の埃を取り除くのを初め、松の内に食べる食べ物を漬けるやら、勝子さんの里帰りの支度やら…で、その持たせ物を肝っ玉ばあさんが「アレヤコレヤ」指示して、テンヤワンヤになってくる。
もちろん女越しも帰省させるわけで、男の受け持ち分担と女の受け持ち分担が交錯しだすと一層口八丁手八丁のソヨノさんと太三さんとのやりとりが激しくなりだして、思わずジュンも、仲の良い夫婦の間に“冷やかし”の合いの手を入れて面白がっていた。
いよいよ昭和21年の元旦の朝がやってきたが、ジュンにとっては田舎の百姓家の正月は初めてで、伯父の指図のままに一家揃って神棚に手を合わせることからが始まりであった。
一人一人に祝いの膳が出て、屠蘇を家長から順次いただくのだが、なるほど、今まで口にしていた雑煮が母の里の味だったのには今さらながら感銘してお代わりをしていた。
居候は三杯目にはそっと出し-と言われていたことなどまったくジュンには無関係で、三杯目も餅は二つと堂々とソヨノさんに出していた。田舎の餅は大きくて全部で8つ食べたのだが、都会の餅にすれば倍ほど食べた勘定に、我ながら食いすぎだった。去年の大連で母親が作ってくれた雑煮に思いを馳せながら箸を動かしていたのだが、敗戦下の大連の両親達がどのような正月を迎えたのだろうと心配になりだしていた。
腹いっぱい雑煮を食べた後は信ちゃん、紀ちゃんの羽根突きの相手が待っていた。正月には男の子は凧揚げと相場が決まっていたが、女の子二人が相手では致し方ない。卓球やらテニスの経験はあっても、羽と羽子板では勝手が違ったが、いい腹ごなしができたというものだった。
その後はやおら太三さんと囲碁で過ごしたが、夕方からの自警団の会合にジュンもでてほしいとのことだった。自警団とはその部落のなかの自称消防団みたいなものらしく、戦時中には男手が兵役に取られていって自然消滅にならざるをえず、女手で細々とつないでいたのだが、新年を迎えたのを機に自警団を再編成するための“寄り合い”をするのだとのことだ。
新家の座敷に集まれとのことで、太三さんと二人して行ってみたが、部落の跡取り連中と、二男、三男と…今なら高1くらいのものが対象者で、その部落に居住する男性で五〇歳くらいまでが団員の資格を与えられた。火災予防、盗難予防は当然として、水防もあるとのことで、結団式とのことだったのだが、趣旨そっちのけの『正月気分』の飲めや歌えの会合だった。
新家もジュンにとって同じ伯父宅に違いはなく、座敷につながる三部屋を開放してはいても五〇人近くの“寄り合い”ともなれば、酒肴のもてなしも大変で、女の手は本家やその近くからも総動員だった。新家の跡取り息子はビルマ戦線で戦死した(ジュンにとっての従兄)のだが、その嫁が働き者で伯父とおばと三人で終戦直後は凌いでいた。
ちょうど太三さんの復員と時を同じく長男一家が京城(今のソウル)から引き上げて来たが、今まで教職にあった一美さんも百姓をする決心とかで、内情は複雑と聞かされていた。
今まで口にしたこともなかった濁酒を勧められるままに飲んでいたのだが、夜が更けるとともにジュンはダウンしてしまったのである。誰かに別室に連れて行かれて布団をかけてもらったような気がしていたが、目が醒めると正月二日の朝となっていた。
新宅事情
年も一〇歳若い新家(新宅とも言っていたが)の二日酔いの頭痛が残る身体で朝の挨拶をして、“上の段”に戻ろうとすると、伯母が「朝飯を食べてからにして」という。どっちにしても五十歩百歩で言われるままに一宿一飯の世話になったのだが、これがあとあとジュンにとってお荷物というか、伯母から執拗に養子縁組を迫られる結果となったのだから皮肉だ。
何でも跡取り息子の嫁に二人の娘しかなく、ちょうどマッカーサーの指令で農地改革の問題が取り沙汰され出していたので、伯母の頭は長男一家の一美さんと後家さんの早苗さんに田地田畑を分与すれば、取り上げられることが少なくて済むわけで、新宅の新宅造りに早苗さんの長女の養子を必要としていた。新宅の伯母の胸算用では、年恰好と言い、身元といい、良いカモがジュンだったのだ。
戦前から地主と小作の関係は連綿と続いていたのだが、農地改革によりただ同然で今までの小作に取られることが明白になりだしてからは、伯母の作戦計画が一々ジュンの身に振りかかってきだした。まだ満州からの引き上げはないものの、朝鮮から引き上げてきた農業従事者も掘っ立て小屋に住み着いて、従来の小作人と一緒に1日千秋の思いで払い下げを待っている。
何でも田地田畑は三町歩以上は所有できないとかで(ミカン山は別)、正月の屠蘇気分が吹っ飛ぶ話で部落中の古老、跡取り連中はその対応に腐心する時期に逢着していたのである。太三さん一家もだいぶ離れてはいたが、“青柳”の田地田畑五町歩ほどは取り上げられると頭痛鉢巻であったのである。
今にして思えば、その附近一帯は福岡のベッドタウンになっているのだから、このときにうまく立ち回った者が利口者ということで、母の里の土地成金は多く現出している。
そのような状況だったおかげでそれからは新宅の伯母が顔を合わせるたびにジュンに好意を示し、「遊びにきんしゃい!」と口うるさく言うようになった。当時、“米糠三升あれば養子にいくな”と養子の辛さ・情けなさを諭すような言い方をしたものだが、ジュンは財産とかの感覚が欠如していたのか、無関心であった。
小学校三年生から小遣い銭は小銭入れをズボンのポケットに持っていて、夜寝ている間に母親が必ず五〇銭になるように補充してくれていたので、いくら使っても一定の五〇銭はポケットに入っていた。そのころは市電でどこまで行っても5銭だったし、学校の売店で昼食の弁当を母親の都合で作ってもらえないときの包子(今の豚まんの半分ぐらいで皮はもう少し薄かった)は五銭で、一〇個買えて腹いっぱいになる時代で、金銭感覚がないといえばない金持ちの部類のオトンボ息子だった。
一度、小学六年のときに、学校の近所の“大観楼”という中国料理店で、子どものくせに野球部全員を連れて行き、皆で腹いっぱい食べて親父の名前でツケにしたことがあったが、そのときだけはジュンは母から叱られた。
母親いわく、「そのような必要があれば、あらかじめ一言親に断ってから行きなさい」。多分、チームの主将をしていたので何かのもめごとがあったのか、親分肌的なところを見せたかったのだろうが、そのときの動機は今考えても思い出せない。
「学用品はいくら買っても良い」との母親の口癖だったが、学校の売店で買うノート、鉛筆、消しゴムではたかが知れていた。したがってジュンには「家貧しうして孔子出ず」的な要素はまったくなく、敗戦後の居候ではあっても、小遣い銭はソヨノさんにいえば「いくらいるの?」で全部もらえたのだから、その点はボンボンだったのだろう。
したがって新宅の伯母からつきまとわれるのがセカラしく、できるだけ避けていたのだが、どこへ行くにも田舎道の出入り口は新宅の家の前を通らなければいけなかったので、待ち伏せされては避けようがなかった。
進駐軍の使役
小正月も過ぎるころから、少しは百姓仕事に精出さねばといいながら、松のうちの気分がだらだらとし続けて、長火鉢で餅を焼いたり、薩摩芋を薄切りにして焼いたりしていたが、部落長さんから進駐軍の使役の話が出てきたのである。隣村の原上と合わせて二〇人ほど若い男を使役に出し、毎週月~金の間“雁の栄”の飛行場に駆り出されるというのだ。
何でも雁の栄はもともと飛行場としては小規模で狭く、観測機程度の発着はできたのだが、米空軍の中型輸送機が降りるためには、滑走機が短すぎたのである。
伯父宅にも割り当てられて、太三さんが閉口していたので、ジュンは自らその使役を買って出た。進駐軍のトラックが、原上と三代の部落まで迎えに来て、二〇人が乗車すると一路雁の栄まで走っていく。
要は、飛行場拡張作業であったが、いかに機械力を誇る米軍でも、ブルドーザーで整地するといっても細かいところは人力で整地しなければならなかったようで、作業中は黒人兵が二人ほど監視しており、白人兵が巡視に来る以外はほとんど黒人兵とのやりとりだった。
都城での不義理や、大濠公園でのハプニングを思い出しながら、午前と午後の就労時間はちょうど今で言う労働基準法並に働かされたが、戦後ソ連に抑留されて、シベリアの奥地で強制労働をやらされた日本兵たちとは比較にならぬほど、口笛吹き吹きの土方作業だった。
日がたつにつれ、黒人兵といっても親しみを感じ出して、休憩時間には片言の米会話を始めるようになっていた。やはり外地育ちのジュンは黒人兵から見ても分かるらしく、「hey you」と話しかけられて、次第に会話の勘所も分かりかけてくると、いっそう親近感が高まり、その中に帰りがけにはPXで調達できるものが、黒人兵を通じてだが、入ってくるようになってきた。
代表する代物は、チユーインガムとかチョコレートだったが、持って帰って喜ばれる最高の物は石鹸だった。ソヨノさんは気をつかって、「米兵の監視下の使役はたいへんだろう」といってくれたが、ジュンは別に辛いとも思わず、かえって英語の勉強になるからと、土・日に雁の栄に行かぬ日々のほうが手持ち無沙汰だった。
1週間ほど過ぎて使役の仕事も板についた頃、やはり黒人どもも女に飢えており、「hey
you sister?」と尋ねるようになってきた。同じ米語でも、黒人の使う米語の発音はスラングがあって、聞きづらい点もあったが、白人兵に比べ、黒人兵のほうが考え方によっては組みしやすかったのである。当時、パンパン英語と称してバカにしていた面もあるが、ここ雁の栄での1ヵ月弱の使役の経験が、あとあとジュンにとっては良い経験になったことに間違いない。
同じ部落の若者から白い目で見られたことは計算外にしても、逆に相手の言うことがわからず困っていることを助けることによって、次第によそ者扱いから必要な人間に思われだした。
進駐軍のイメージもそのようなことが色々あってからは見方も変わり、ようよう使役作業が終わりに近づく頃には、白人、黒人を問わず仲良くなり、真冬とはいえ天気の良い日の昼休みには、日米対抗のソフトボールの試合をしたりもした。
お別れの日には、彼らの心尽くしのささやかなパーティまで開いてくれたことは、やはり明るく陽気なアメリカ人気質だったように思う。厳寒のシベリアの強制労働とは天地の差だったことが、義兄の復員時に聞かされた話でわかり、日本がアメリカに占領されたのが良かったと思ったのは二年近く経ってからの話だ。
使役から解放された後も、同じ部落の若者たちと親しく付き合うようになってきた。夕食後に落ち合って馬鹿話をするようになり、道具類は不足気味だが、部落の若者が集まって、野球チームを作ろうとの話がまとまりだしたのだ。
部落の長老たちにも相談したが異論はなく、特に部落長は最初進駐軍の使役の話があってウロたえていたことを思えばおやすい御用とばかりに協力してくれたのである。
マーちゃん
野球チームの話が持ち上がった頃に、勝子さんが待ちに待っていた六男の正則(マーちゃん)が、満州から引き上げてきた。マーちゃんはいわゆるヘッパク(冗談のこと)ばかり連発する男だったので、とたんに賑やかさが倍増したのである。
新婚同様の夫婦者を一つ屋根には寝せられないので、隠居家の二階で住むようにとの太三さんの配慮で、その番から勝子さんはいそいそと隠居家に引っ越したのだが、翌朝からさっそくマーちゃんが野球チーム作りの話に乗ってきて、チーム結成がとんとん拍子に進んだのである。
しかもキャプテンがマーちゃんということになり、引き上げ早々から、ユニフォームはないにしても、道具のかき集めからグランドでの練習方法等、打ち合わせや走り回りが一仕事であった。ジュンも野球となれば黙ってはおれず、「いつでも投げられるぞ」と言っていたのだが、左のグローブがなかなかいいのがなく、一騒動してやっと手に入れたのだった。
当時“リンゴの唄”が敗戦後の日本人に明るさを取り戻す起爆剤となったことは周知のことだが、草野球をやるためのチーム作りも平和の象徴であったのだ。
隣村の原上や青柳にもチーム結成が急速に進み、時を同じくしてすぐにでも三チームの対抗試合をとの空気に支配されつつあったが、真冬から野球の試合は早すぎるとの意見も出たりして、三月早々からと話はまとまったのである。
田舎のこととて、娯楽としてはせいぜい博多の街に映画でも見に行くとか、夜に好き同士が酒を酌み交わすくらいのほかは、あまりなかったのだが、マーちゃんが満州帰りのマージャンを部落の若者に教え始めた。ジュンもマージャンは賭け事でよくないとは言われていたものの、覚えてくるとこれほど面白い遊びは他に類がないことがわかってきた。
煙草屋の次男坊の二階がマージャンの巣窟となり、夜になると話し合いと称して、実はマージャンに凝りだしたのである。いつも悪い遊びは満州時代からマーちゃんの伝授があってのことだったが、農業を生業にしている部落では夜一二時を過ぎてからの一荘は憚られた。
翌朝になると、隠居家からマーちゃんが歌を歌いながらあがって来るのだが、戦後流行りだした“東京の花売り娘”の歌詞をもじって、「飯を召しませ~召しませ飯を~」と朝一番から陽気そのものであった。
だんだんと人数も増えると、食卓に皆が座れなくなりだしたので、厨房側の土間に長い腰掛椅子を置いて野良着のいでたちで朝食を食べることにしだしたのがこの頃からであったが、マーちゃんとソヨノさんが同年であって、しかも太三さんと結ばれる以前からの遊び仲間とあっては、その遣り取りがふるっていて、朝から笑い声が絶えなかったのである。
百姓仕事は今一つのマーちゃんも、一言一言にユーモアがあり、退屈しない男であったから、太三さん一家はもちろんだが、部落の中でも人気者で誰彼なく笑わせていたのである。
勝子さんはというと、これがまるっきり実直そのもので、亭主がヘッパクを言うたびにはらはらしているタイプの女性だったが、だんだん慣れてくるに従い、似たもの夫婦とはよく言ったもので、時折マーちゃんの上手をいくようなジョークも飛び出して来ることもあり、ようやく気兼ねなしの雰囲気が出だしたのである。
そうこうするうちに、マーちゃんにも就職の話が田川の炭鉱から来たので、“さあどうする”と真剣そのものの相談となった。
マーちゃんは長年炭鉱暮らしをして慣れた仕事だし大いに乗り気だった。その上、当時はエネルギー源として、石炭は黒ダイヤと言われるほど、脚光を浴びだしたところだし、何といっても普通のサラリーマンの倍以上の給料が魅力だったのだ。
戦後日本の復興の戦士としてもてはやされだしたし、撫順炭鉱時代の同僚からの誘いでもあったりしたのだが、劣悪な炭鉱施設でもしものことがあってはと勝子さんは泣くように言って、「思いとどまってほしい」と主張していた。
確かに喜八ちゃんも八幡に出て働いているし、6男坊も7男坊も条件は一緒で、いつまでも居候というわけにもいかず、選択の岐路に立たされたのである。一生のことであり、夫婦して良く話し合うようにとのことで、皆それぞれ床についたのだが、結論がつくまでの1週間は正則夫婦の間で他人には分からない話し合いが続いていたようだ。
最終の結論として、勝子さんの人物を見込んで、ちょうど農協の購買店に夫婦者が住み込みで来てほしいという話が別ルートからあったことも幸いして、勝子さんの希望通り、炭鉱での就職話を断ったのだが、確かに北九州の炭鉱で惨事が続発したことが後々新聞紙上に出ていたことを考えれば、勝子さんの選択が正しかったのだろう。
ただし、講売店勤めは、「前任者が任期まで勤めてからのことで、今しばらくは居候を決め込み、その間はマーちゃんも百姓の手伝いということになったのだが、ジュンにとってはそのほうが楽しく歓迎すべきことだったのである。
したがって勝子さんも今まで通りご隠居家住まいとはいいながら、ソヨノさんの手伝いをはじめ従来通りの生活を続けたわけだが、炭鉱街に住む十七世紀の美人の姿が実現しなかったのは「ご同慶の至りというべきだ」と今でも思っている。
引き揚げ者
三月に入るとともに、続々と満州の奉天地区と中国の北京附近から引き揚げが始まったらしく、ジュンにとってはいとこ、はとこが皆コブつきで帰ってきだした。まず五男坊の治朗一家、四男坊の与三太一家、次男坊の勇一家、そして、父方の従兄にあたる重治一家と伯父の思惑通り引き揚げラッシュが続き、さすがのソヨノさんたちもグロッキー気味だった。
確かに、続々帰ってくる本人同士は兄弟でも、コブつきの1,000円乞食で、そのコブが泣き喚くやら、いたずら盛りのもおり、しかも初めて見る子どもにはやはり情が薄いのが当たり前で二~三日もするとカッカすることも再三で、それが連続して四月まで継続したのだ。
引き揚げてきた従兄たちも皆それぞれ弁えていて、すぐ次の日から就職口探しに出掛けていったのだが、その家族はしばらくは面倒を見る必要があるわけで、みるみる食糧のほうも底を見せ始めると、肝っ玉ばあさんといってもカリカリしだすのだ。
伯父はといえば、これだけの引き揚げでは済まぬと、春先から作付けするものを増やすよう、どこの田やあそこの畠に何を植えるべきかと鳩首会談の形を毎晩のように長火鉢の前でやっていた。とにかく芋の作付け面積を増やすことと、稲作を予定以上にするための籾の確保が先決と相談がまとまったようで、ジュンも初めて経験する芋の苗床作り、稲の苗床作りに太三さんの先手で大童になりだしたのは、それからすぐのことであった。
四男の与三太さんは、九州配電(今の九州電力)にすぐ就職が決まり、名島の社宅住まいとなったのを初め、次男の勇は博多で測量機械を扱う商会に話があって、吉塚に移っていった。しかし五男の治朗はなかなか就職口がはっきりせず、それではしばらく隠居家の1階に住むようにと一時の落ち着き先を定めたのだ。
重春一家は、いったんジュンの父方の里である秋月に仮住まいすることとなり、みなそれぞれに妻子を抱えての世帯は引き揚げの疲れを癒す間もない東西奔走を強いられたのだ。
二月の末ごろにソヨノさんから今一度、福岡高等学校を正式に受験してはと言われていたのだが、このような引き揚げのテンヤワンヤでは、いくら向学心があるとはいえ、ジュンとしては受験する気も起きず、五高ならいざ知らず、福高は去年の怨念があって、その年の受験は断念して食糧増産に励む決意を固めていた。
日曜日ごとに街中にいる従兄やはとこは食料調達に来るし、春光の百姓仕事も多忙を極めだしていたが、野球の試合もようよう始まり、百姓仕事と野球の試合が交錯してきての忙しい日々を迎えていた。
マーちゃんが主将で、さらに監督が日曜日ごとに来る与三太さんとなって、隣村との対戦では応援合戦も派手になり、青柳と対戦した日などは、一家挙げて隣村まで出掛けたりで、忙中閑ありと称してはいたが、伯父は「お天道様は待ってはくれないぞ」と言って渋い顔だった。
煙草屋の次男坊がエース格で、ジュンは足を生かしてのセンター一番バッターで活躍したが、いずれも連戦連勝で、与三太監督も意気軒昂だったのである。チームが強くなると、他のチームから続々と試合の申し込みもあり、和白、香椎、箱崎あたりのチームとの対戦話も出だして、次の日曜日はどこで試合をするのかというのが部落の話題となってきた。
そのときのチームメイトは平成の時代ともなるとゲートボールのチームに化けて、今では山口県や熊本あたりまで試合に行くようになっているとのことだ。
田植え
五月晴れのある日、自警用に召集がかかり、長靴を穿いてバケツ一つを持って堤に集合という妙な指令が出た。梅雨に入る前に堤の底浚いをしておくのだが、その目的は淀んだ水を入れ替え、水深を少しでも掘り下げて、溜め水の量を確保するためだった。
放水をして底が見え出すに従い、鮒が一番多かったが鯉や鯰もおり、大きなバケツを持って来た理由が分かった。稚魚は来年、再来年のために残しておくのだが、それぞれの家に何匹か持って帰ってもよいということだった。泥鰌や鰻は泥の中に潜るから、なかなか捕らえられなかったが、半日がかりの大仕事で、面白い捕物帳を演じたのである。
夕食は鯉こく料理となったが、海の魚ばかり口にしていたジュンは、池や川の魚はドロ臭くて食えたものではなく、皆が旨い旨いというのを尻目に、漬物と塩昆布でその日は辛抱した。
竹の子ご飯や豆ご飯、果ては芋入りダゴ汁をかき込んでの田植え戦争が始まった。
朝、東の空が白みかけると同時に太三さんとジュンは、牛を引いて、田掻きにおおわらわとなる。田に水を張って田の面を水平に慣らすのだが、泥の中を牛を追って掻き回すのをほとんど一日中交代でやるのだから、泥んこになるわけで、田掻きが済んだ内から手植えで苗床から持ってきた苗をあらかじめ凧紐で線引きした間に整然と植えていくのだ。
隣の田を田掻きしながら、皆が中腰で後ずさりして植えている姿は、特に女の人の“お尻の品評会”と称していた。
その部落全体が老いも若きも総出で田植え仕事に役立つ手伝いをする。特に日曜ともなれば、博多の街中の連中が応援?(実のところは一家揃って来て、栄養補給と食糧持ち帰りが目的)に来て、人数も膨れ上がり、頭数では壮観となるわけだ。
梅雨だから当然雨の日もあるわけで、しかしだからといってこのときばかりは、“晴耕雨読”と決め込むことはできない。初めて蓑を着せられ、頭には陣笠帽子を被らされての出陣となる。その蓑を身に着けて、ジュンは太田道灌の“七重 八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきは悲しき”と小学校5年のとき詩吟の解説で習った故事を思い浮かべて、文学畠のソヨノさんとお互いに語り合いながら、雨の日の一重図を現出する日も多かった。
余り降り過ぎると、畦塗りをしたところが決壊しないよう水加減もしなくてはならない。また、素人が植えた稲が浮いてくることもあり、その箇所に新たな稲を補充しに、その場所まで、わざわざ他の稲を倒さぬように入り込んで稲を植える余計な仕事が出るのだ。
植えの大騒動が一段落して、思いもつかなかったことがジュンを困惑させた。毎日毎日、田掻きを続けて夜は足が火照って寝つきが悪い晩だけなら良かったのだが、田圃のなかには蛭と称するのがいて、人の足に吸い付き、生血を吸うのがいたのだ。田掻きに「夢中になっていて、なんだか痒いと感じたときには必ずといっていいほど、蛭が吸い付いている。
蛭をむりやり引き剥がし、畦で踏み付けて殺すのだが、吸われた傷口からは出血がしばらく止まらないのだ。その傷口に黴菌が入るのだろうが、都会育ちのジュンは、そのバイキンにやられて、傷口が至るところで膿みだしたのである。
近くの病院とはいっても産婦人科で手当てをしてもらい、化膿止めの薬を飲むハメになって、その間は共同風呂に入れず、井戸端で水を浴びる情けない日々を送ったのだ。同じように田掻きをしても、太三さんを初め、村の跡取り連中もジュンみたいな患者は出ないのだから、田舎育ちのものは多分免疫がついていたのであろう。
田植えを終えた後は、田の畦に大豆や黒豆をまいたり、降雨時の水加減をするための田圃の見回りや薩摩芋の苗床に精を出す日が続いた。
鰻 漁
七月に入って田植えの疲れもとれて、土用の日に近づく頃から、鰻の一本釣りを始めた。海の魚釣りの経験は豊富だったが、川の魚はどのように釣るのかトンとわからなかった。太三さんから伝授されて初めて納得したのである。
前の日の夕方、畠で餌のミミズをできるだけ多く摑まえて、翌朝、朝日が上がらぬうちから出かけて行き、鰻のいそうな葦が生えている川のほとりに親指大くらいの太さの青竹の竿の先に凧紐を垂らし、その先端に三重くらいの輪を作って、そこにミミズを通すのだ。朝早く糸を垂れると、鰻は腹をすかしていて、ミミズの匂いがするのだろう――いきなりその三重にした輪のミミズに大口を開けて喰らいつくのだ。
別に浮きとか、海釣りの釣竿の先がしなるというような高尚なことは一切なく、「ガブッ――」と喰い付いた感触は相当甚だしいからすぐにわかる。その瞬間、農道の広いところに放り上げる感じで釣り上げるのだが、鰻はミミズを咥えて食べようとしているのだから、釣り針も何もない、ただタイミングを見計らって上げさえすれば、丸々と太った長さ一メートル級でも釣れるわけであった。
その巧拙を決めるのは、かかった鰻の大きさによりちょうど良い具合の力加減で放り上げて農道の広い部分で捕らえることだった。ちょっと手元が狂って草むらにでも入ってしまうと、着地した鰻がそのショックでミミズと離れ、折角の獲物を見失い、失敗するのだ。さすがに太三さんは慣れたもので百発百中だったが、ジュンは草むらに落とした大きな鰻に未練がましく、「逃がした鰻は大きかった」と悔やむことしきりのほうが多かった。
太陽が完全に上がってしまうと、鰻のほうももう食いつかなくなり、ちょうど海釣りのタチウオ釣りみたいだと思ったが、身体の細長い魚は海であれ山であれ、似ているのかもしれない。
そのうち、一本釣りで何十匹も捕らえられぬということで、本番は“密漁”となった。本来は罰せられるのだが、ミカン農家には一定の青酸カリの配給があるのを利用して、夜の夜中にそれを使うことにしたのだ。なぜミカン農家が青酸カリを持っているのかといえば、ミカンの消毒のためで、これを硝酸と一定量に混ぜ合わせると、一種の殺虫用毒ガスが発生するわけだ。
ミカンは春先の開花前と初秋の収穫前に消毒するのだが、人畜に害のない程度の毒ガス薫蒸を春に実施していた。一本一本のミカンの木に真っ白な覆いを被せて消毒するときは、一種の風物詩を見る思いがしていた。したがって青酸カリはいつでも農協を通じて買えたわけで、密漁が発覚すればなんらかの刑罰は免れないが、その頃は隠れて誰もが一回や二回やった経験があるのだ。
土曜日の夜中に川の上流から多量の青酸カリを流し始めて一〇分ほどしてからやおらカーバイトのカンテラを照らして、川下の方を下っていく。上流のほうは青酸カリの濃度が高く、鰻は大半が腹を上にしていて、小さいのは死んでいたが、大きいのは虫の息で夢遊病者みたいに泳いでいる。
下流300メートルくらいでこの効果は薄れて、何もなかったような状態で、この300メートルの間に棲んでいた鰻がその夜の獲物だった。青酸カリ死した鰻をバケツに何杯も持ち帰って、すぐに「腹を割いて水洗いすると問題なく、翌日曜の蒲焼に大勢がありつけたわけで、ソヨノさん以下の女の手で包丁捌きが大変だったのだ。
兄姉帰る
大陸からの引き揚げも次第に奥地からとなり、新疆、吉林地区からも引き上げ者が続々と帰ってきだした。
日差しの強い中庭で、皆で西瓜を食べていたとき、兄と上の姉が二人揃って庭先に現れたのを見て、ジュンは狂喜の気持ちを隠せなかった。特に上の姉が東満第一線にいたことを思えば、生きて帰ってこれたことが奇跡に近かったのだ。
思ったより二人とも元気で、伯父一家の一人一人に積もる話で尽きなかった。兄は六年、姉は4年東京に在学しており、東京と大連の出入りの折には母の里を訪れていたのだから、支那事変(今では日中戦争という)当時からの思い出話がある道理だ。夜、座敷で三人床を並べて夜中まで語り明かしたのだが、お互いの戦後の苦難の話は尽きなかった。
特に上の姉は東満一千の勝鬨陣地で、終戦の年の八月二六日までソ連軍と戦っていたとかで、終戦から引き揚げまでは苦難の連続だったようだ。婦女子は皆開戦までに南満に避難していたので、女はただ一人だったそうだ。義兄と運命を共にする覚悟で陣地のなかでがんばって、負傷した将校の看護に生死を超越してあたっていたそうだが、関東軍の参謀からの再三の説得を受けて、八月二六日の武装解除の日を迎えたとのことであった。
その後は陸軍中尉だった義兄はソ連抑留、姉はただ一人ソ連兵にピストルを突きつけられた状態で、吉林の日本人捕虜収容所まで三日三晩をかけ、歩かされたそうだ。
その吉林の日本人捕虜収容所で、兄長介と逢ったとかで、万一ソ連兵に犯されそうになったら舌を噛み切って死ぬ覚悟だったそうだが、ソ連兵も日本軍将校の妻として認めていたのか、暴行は加えなかったのだ。
二晩ほど語り明かしたその次の日、福岡県庁に行く必要があると兄が言うので、三人で福岡市内に出た。県庁の用事を済まして、博多の千代田町で国際劇場という洋画専門館に入り、ディアナ・ダービンの「オーケストラの少女」を見たが、戦後の苦難の連続の後のせいだったのだろう、ミュージカル映画の楽しさとアメリカの楽天的な面が印象的で、皆で連続二回見てしまい、帰ってから太三さん夫婦に「熱心なことで…」と笑われた。
姉は義兄の郷里である福岡の南に位置する三潴郡の実家の方に無事引き揚げの報告に行くとのことで、兄も一緒について行くこととなり、再会は両親の無事な顔を見る時と約して、別々の道を歩むこととなるのだが、姉はそのまま兄が復員するまで三潴郡に滞在した。
兄長介はその後福岡の街で従兄の勇や治郎とともに福光商会という測量機械やその当時手がけたら儲けのありそうな商売を始めたのだ。
墓 参
治郎さんの嫁の里が父の郷里の出身だったので、お盆の時期に一緒に墓参りに行くことになった。都会育ちのジュンには、田舎の血縁の感覚的なものは余り関心はなかったのだが、伯母が同行するようにしつこく言うので、墓参りの段取りとなった。
治郎さん一家と同道はしたものの、秋月では当然ながら泊まるところは違っていた。父仲介が幼少のころ育ったジュンの祖母の生家で“白水家”といったが、黒田藩の分家で秋月五万石の御典医だった家柄だ。当主は養子で三代の伯母とは伯父・姪の間柄でどこまでも血縁がついて回っていたが、例の与三太の嫁はこの白水家の出身であり、したがって与三太さんとスマノさんはいわゆる片いとこということになる。
何でもジュンの祖父は、当時秋月の大地主の息子で見渡す限り上秋月の田地田畑は安東家のものだったそうで、治郎さんの嫁の里はその小作人として出入りしていたと聞かされたが、祖父はヤマ気の多い人物で政治に打って出て、明治の初期に政友会に入り、地元に鉄道を敷くことに夢中だったそうだ。
政治にどんどん金をつぎ込み、挙句の果てに田地田畑をぜんぶ売り払い、鉄道誘致を果たす以前に早逝した。ジュンの祖母は無一文で後家となり、小さな子どもを抱えて生家の白水家に厄介になったのである。したがって、白水家の一木一草が父仲介にとっては思い出の物ばかりなのだが、ジュンにとっては昔話であり、白水の当主が地元の小学校校長を定年退職後は、鶯と盆栽を相手に悠々自適の生活をしていたので、碁の相手ぐらいにしか思っていなかった。
時折は、近所の娘さんを集めて華道の手ほどきをしていたのだが、戦時中は妻に先立たれてやもめ暮らしで、当時これも満州から引き揚げてきたばかりのジュンにとってはふた従兄にあたる四男夫婦が爺さんの面倒を見ていた。
安東家の墓所は二箇所にあり、菩提寺である西念寺の岡のテッペンと上秋月の竹薮に囲まれたところにあったが、寺門は父仲介が寄贈したものと住職から聞かされもしたけれど、そのときのジュンには、とくに感慨らしきものはなかった。
上秋月の墓所では、薮蚊に悩まされた。案内の墓守にこの墓石がジュンの祖父と聞かせられて、「アホな爺さんだなー」と思ったのだが、墓標の文字が父仲介の筆跡と聞かされたときは、正直言ってさすが“オヤジ”と思ったのだ。何でも祖父が死んだときは父仲介は修猷館の2年だったそうだから、なるほど当時は筆時の練習はしていたのだろうが、見事な字筋と自分の父ながら感服した。
案内の墓守が「この方は安東のおぼっちゃま」と道端で何人かに紹介されはしたが、涙を浮かべてくれる古老もいたりして、とまどった。ただし無一文の「おぼっちゃま」には値打ちはない道理で、古老の懐古の涙と受け止めていたのである。父の郷里では、‘ちゃま’とか‘しゃま’づけは目上につける敬称ではあったが、一望見渡す田畑が人手に渡ってからでは話にならない。
数日間白水に滞在していて、父の郷里の様子もわかりかけたが、農家でもない白水には長逗留はできなかった。秋月名産の葡萄を土産に、小京都と称せられる秋月を辞して、母の里に戻ったが、ご先祖さまの話を聞かされたり、父仲介が母校である学校の運動用の器具を寄贈していたことなどを聞くにつけ、ジュン自身考えさせられることがありすぎたのである。
終戦後まる二年を経て百姓二年目に突入したが、将来展望のないままいつまでも百姓ではいけないと思いながらも百姓仕事が山積みしているわけだからジッとしてはいられず、そのままずるずると俄か百姓を続けざるをえなかったのだ。
百姓仕事も丸一年やってワンサイクルを経験すると、その時期に何をしなければならないのかがわかった積もりでいたが、実はそうではなかった。
牛蒡地打ち
秋口に植え付けするものの代表に里芋があり、また、去年は作っていなかった牛蒡を作ろうということで、これがたいへんな難作業を伴うことを体験させられた。
普通の蔬菜や麦播きでも深耕のほうがいいとはいいながら、それなりの深さに鋤けばいいが、牛蒡はその倍以上鋤く必要があり、初めに鋤いたぶんの土量をいったん鋤き勝手のほうに積み上げ、2回目をもう一度、同じところをさらに鋤き返すのだ。人間も塹壕みたいなところに足を踏み入れなければならないが、それ以上に巨体を踏み入れる牛は歩きにくいのでいやがるのだ。
それをうまく誘導して鋤くわけで、高度なテクニックで人と牛が一体となった農作業の極地なのだ。初めてのことで太三さんが手本を示してくれて、それを見よう見まねでやってみたもののなかなかうまくいかず、足腰がふらつくやら、牛が嫌がるやらで百姓仕事がもう一人前と思っていた天狗の鼻はいっぺんでへし折られ、ビギナーの悲哀を味あわされた。
結局のところ、牛蒡打ちと称するものはジュンはものにならずで終わり、太三さんがほとんどやってしまったのである。
その点、里芋のほうは気楽なもので、植え付けも芽が出るほうを上に向けるよう気をつければ、普通の鋤き方でよかったから心配はいらなかった。ただ、通常の田畑ばかりに植えるわけではなく、狭い場所の斜面に植えるほうが多いこともあって、そのときは三又と称する鋤で掘り起こすのだ。
またその頃に作付けするものに玉葱があった。葱といえば満州では今でいう東京葱の白い葱が中国山東省からどんどん来ていて、それを中国人が朝に夕に生で齧る姿ばかり見ていたので、母親や姉たちがライスカレーを作るときぐらいしか、玉葱をみる機会がなかったのだ。
その玉葱を植えるのは比較的簡単だったが、自給自足の農家では一通り何でも作付けするから、伯父が猫の額ほどのところにらっきょうを植えたり、にらを蒔いたりとバラエティに富んだ農作物が春秋の時期にはたくさんあって物珍しいことが多かったわけだ。
農家は保存食として芋類を初めとして、この玉葱も収穫期には物干し竿に吊るして、年中食用に供していた。
出逢い
何でも作ろうと金柑畑の上の畝で畑を鋤いていたある日、箱崎の嫁ぎ先に引き上げていると聞いていた従姉妹の愛子姉ちゃんの一家が訪れてきていたが、その長女と弟2人が籠を持って金柑千切りにわいわいがやがや賑やかに騒いでいた。そのうち、なにやら弟二人がもめだして、それを宥めている中一の女の子が何をかくそう、成人してジュンの妻となった順子その人だった。
ジュンと従姉妹半にあたる当の順子は台湾生まれの台湾育ちで、小さい頃の写真は二~三枚大連の家にも送ってきていたので、その存在は意識のなかにあったような気はしていたが、本人との出合いはそのときが初めてで、弟2人の面倒見の良い、すらっとした女の子だなあ、くらいにしか感じなかったのだ。
それが不思議な縁で10年後には結婚したのだから“縁は異なもの味なもの”といわざるをえない。結ばれるべき下地は生まれながらにして“蜘蛛の糸”みたいにあったのだ。
すなわち愛子ねえちゃんが撫順時代に花嫁修業を兼ねて、何年か安東家に居候していた時期に、ジュンはおしめを替えてもらい、一番手のかかる赤ん坊の頃に母親の手助けをしてくれたのだから無理もない。
ジュンが畑から一仕事を終えて伯父宅に戻ると、「あら、ダイちゃん」とその愛子姉ちゃん(10年後には義母)が懐かしそうに声をかけてくれたが、ジュンは「うん」と一言返事をしただけで、「鶏をひねっちんたい!」と肝っ玉婆さんの要請に、卵を産みそうにない雌鶏を一羽潰すほうが忙しかった。後日談になるが、そのとき食べた鶏飯が涙がでるほどおいしかったらしく、何杯もおかわりしていた順子は、次の日には下痢に悩んだそうだが、ジュンの責任ではない。
義母はジャワ(現在の)で、終戦を迎えた祖父の箱崎の実家で姑にいびられながらジッと耐えて引き揚げてくるのを待ち続けていたのである。
そのときは一言も順子と言葉を交わすでもなく、お互い関心外のことであったにせよ、運命の出会いとでもいうのであろう。その後一〇年間は互いに別々の青春路線?を歩いていたのだが、引き揚げ者のジュン一家も順子の一家も散々苦難の日々が待ち構えていたのだ。
結婚後にそのときのことを話してみたが、ジュンの愛妻は「一切覚えていない」そうで、中1の娘にはその気もないのも当たり前だ。
猟 期
秋の収穫期は昨年のような侘しいものではなく、大勢で稲刈りが華やかに済んだ後は、農閑期となるが、昨年と違って労働力が多かった分、それだけ余裕が出て、太三さんに教わりながら、冬の気配とともに兎や狸の罠をしかけるようなこともしてみた。
まず兎道に針金でちょうど兎の首が入る大きさに輪を作り、近くの木に結わえておくと、兎が餌を求めて人里に出てくるときにその罠にかかるのだ。
あるときはせっかく掛かった兎が血だらけになって針金を食いちぎったのだろうが、逃げていたりもしたが、適当な大きさの若兎のほうは、次の朝見回りにいくと掛かっているのだ。
狸のほうは虎挟みと称する四つ足の動物を捉えるスプリング式のものだったが、警戒心の強い狸のほうが利口なのかかからなかった。
兎の肉は食べてみると鶏肉に似てあっさりしていたが、取らぬ狸をためし食いできないとボヤいていたところ、部落のなかで猟を趣味にしていた中年のおっさんが、「そろそろ俺の出番のシーズン」とばかり猟犬二匹を連れて、ジュンにも一緒にくるよう誘ってくれた。
狸の棲んでいそうな山を目指して登っていき、頃合を見て犬に吠えさせると、狸は慌てて高い木に登って気の又のところで下を見ている状況を作るとこっちのものとなる。犬が木に登れぬところを知っている狸は、下を見下して可愛い目で我々を見ているのであるが、それを猟銃で撃つのだ。
一発で眉間を打ち抜くのがあとあと狸の毛皮を利用するための条件であり、そのおっさんは狙い定めて物の見事に一発で仕留めたのである。木から落ちた狸を二匹の猟犬がいきりたって食いつくのを引き離して、狸の眉間を確認したところでは、おっさんの射撃術は寸分違わぬ素晴らしい腕であることが立証された。
毛皮はおっさんが売り物にするらしく、ジュンは一世帯ぶんの狸の肉を分けてもらって夕食は狸汁と洒落てみたが、それほど旨いものではなかったものの、羊の肉のような臭みはなく、まあまあの代物だったのだ。
ゲテモノ食いが一時流行って、馬肉や猫の肉まで試食してみたこともあったが、猫の肉は泡ばかりたって最低の肉であることがわかった。肉は牛肉に勝るものはないようで、話の種とはいえ、田舎での生活ならではの貴重な経験をした時期を過ごした。
父母帰る
田舎で2年目の正月を平穏のうちに迎え、餅腹をこなすための蒔き割りをしていた小正月(一月一五日)ごろに、大連から引き揚げが始まるらしいとの情報を新聞で見て、内心では一安心していたのだが、両親を初め一家揃って無事であるかは顔を見るまではわからない。毎日毎日新聞紙上に引き揚げ情報が載り、気になる日が続いていたが、1月末になって佐世保発信の父からの電報が届いたのである。それによると、その他のことはまったく不明だが、博多駅に二月三日昼過ぎに到着するとの電文だった。とにもかくにも迎えに行かなければと思う数日間を経て、ついにその日が来たのである。
博多駅に兄長介や正則さん愛子姉ちゃんと四人で引き揚げ列車を待つこと長し、真っ黒の煙をはきながらD51機関車がプラットフォームにすべりこんできた。昭和二二年二月三日のメモリアルデー、“両親との再会”は九州といえども零度に近い寒い日であった。
勢いよく姉の“チャン”(ジュンの幼い頃の呼び方「ちっちゃい姉ちゃん」のニックネームの短縮形)が降りてきて、引き続いて父母が降り立ったのだが、2年ぶりに会った母親が痩せて小さく感じ、心痛む思いをしたのがそのときの偽らざる心境だった。
母親を抱きかかえるようにして再会の涙を拭ったのだが、父親の仲介は毅然として荷物を受け取るように指示するので、男手三人で荷物を運び出すため、小荷物扱いに行って驚いた。
その頃は、国鉄も戦後の混乱からようやく立ち直っていて、鉄道荷物も戦前同様に扱ってくれるようになっていたが、大連からどうやってもって帰れたのか、布団袋と行李が全部で二二個あったのだ。
リュックサック一つで命からがらの満州奥地からの引き揚げの姿の1,000円乞食を想像していただけに、その事情が飲み込めぬまま、いったん一時預かりの手続きをして、一番近い箱崎(ジュンののちの岳父の実家)にとりあえず旅の疲れを癒すため、皆で市電を乗り継いで赴いたのである。
姉のチャンの話では戦後の苦難の話は尽きなかったが、22個の荷物の中身は布団やら衣類のほかに、父にとって大事なゴルフセットが二バックと母にとって大事な玄米釜(圧力釜のことで戦前から黒豆や本当に玄米を炊いていた釜)まで持ってきたのだという。ジュンが一番感心し、チャンの心遣いが涙が出るほど嬉しかったのは、幼少の頃からの写真アルバムを持って帰ってくれたことだった。
とにもかくにも箱崎の仙吉じいさん宅に落ち着き、勝子さんや愛子姉ちゃんの心尽くしの手料理で無事引き揚げの祝杯を挙げてもらったのだ。箱崎では大勢で泊まることもできないので、その晩正則夫婦とともに三代に帰ってまた改めて迎えにくることにしたが、二年近く待ち続けた甲斐があったというものだった。
翌々朝、再び箱崎まで迎えに行き、両親と姉を三代に案内することにしたのだ。
母親のクラにとっては里帰りとはいえ、無一文の引き揚げ者として生まれ故郷に帰ることなど夢想だにしていなかっただけに、立花山を見上げるところまでくると、双眸に涙を浮かべていたのが、今でも強烈な印象として残っている。伯父は、気遣っていた末娘の妹に再会していろいろと気配りしてくれていたが、ジュンは話の内容はわからぬまま、母親がご先祖様の位牌の前に座ったときは、一緒に手を合わせ、相伴したのだ。
満州での苦労話は尽きず、戦後ソ連軍が大連に侵攻してからの話から始まり、引き揚げ船での祖母の死に至るまでのストーリーはボリュームがありすぎた。
祖母はそのとき八二歳の高齢であり、佐世保の中まで引き揚げ船が接近しつつあるとき、乗船者のほとんどが「故国の山々が見えた」と甲板に出て歓声を上げていたそうだが、祖母は船室の丸窓越しに「日本に帰ってきましたよ」と看護を続けてくれていたキクエさんの手に抱かれ、佐世保港の入り組んだ半島の山々を見据えながら、嬉しそうに微笑を浮かべつつ、そのまま蝋燭の火が消えるように還らぬ人となったのだ。
やはりジュンが大連を出発する折に、「これで祖母には最後かな」と予感していたのが的中したのだが、祖母にしてみれば故国の姿を一目見て逝ったのだから劇的な大往生に違いない。
そのために佐世保援護局の計らいで父仲介を初め、一家は祖母の遺体を荼毘に伏すための期間、佐世保に留まったのだそうだ。
献身的に祖母の面倒を見てくれたキクエさんは、その引き揚げ船のなかで航海中に3人の妊婦から3人も赤ちゃんを産ませたそうで、いかなる環境でも人の生死はついて回るわけだ。
そのキクエさんは一七歳のときに長崎でジュンの祖母に声をかけられ、はるばる満州の地に渡ってからの安東家の恩義を忘れず、その後も落ちぶれ果てた安東一家のために色々と手助けをしてくれたのだが、佐世保から実家の五島の両親に無事帰国を告げに、その足で福江港に向かったそうだ。
寝物語に姉のチャンの話してくれる戦後の大連の事情を要約すると、
1.
光明台小学校の校庭にソ連の戦車隊が駐在して、その一帯の日本人居留地を民家を鉄条網で囲み、二四時間以内に撤去するようにいわれて日本人は命からがら逃げ出したのだ。
2.
ところが安東家といえば、鉄条網で囲まれたなかで際立って大きな家だったので、戦車隊が住むことに指定した。生活レベルの低かったロシア人は家の内部を見て、住宅機器の取り扱いがわからぬからと安東一家をそのまま居留させることを一方的に押し付けてきたのだそうだ。
3.
そのお陰で慌てて逃げ出すこともせず、またその当時の日本人居留者の婦女子はソ連兵に犯されないかと年頃の女の子の頭を坊主にして男装したりしたそうだが、姉のチャンは髪もそのままで、年頃の娘の姿で通し、持ち前の積極性で片言のロシア語を憶えて、逆に衛兵に守られている状態の生活に入ったのだ。
4.
鉄条網の外では、種々の発砲騒ぎがあったり、日満韓にロシアの兵隊が加わったのだから平穏なはずはないのだ。
ただ、ソ連軍の軍規は厳しく、何かソ連兵の問題が発生すると、Γ・Б・У(ゲーベーウー、ソ連の憲兵)が有無を言わせず射殺するので、表面的にはソ連軍の駐留している附近は安泰だったのだ。
5.
ただし、日本人にうらみつらみがあった中国人や韓国人から逆にお返しのいじめをされた話は枚挙に暇がないほどだったそうで、戦前から戦中にかけての日本人のあり方が問題だったのだ。
6.
安東家は、ソ連の衛生兵が守ってくれている中で、さらに鉄条網越しに満人の野菜売りや煙突掃除屋、魚屋と日頃からかわいがっていた行商人が代わる代わる尋ねてきて「不自由なことはないか」といってくれて、今までとは逆に面倒を見てもらい、良かったそうだ。
その反面、その地帯から追い出された日本人たちからは、羨望と憎悪の目で見られていたことも否めなかったのだ。
7.
翌3月の春の訪れとともに戦車隊長の交代があり、後任の戦車隊長から追い出される破目になった。そのため鉄条網の外にあった父の里出身の松木さん宅に転がり込むことになってからがたいへんだったそうで、父仲介が急性肝炎を患うやら、食料にも難儀する時期を経て、ひたすら帰国する日を待ったのだそうだ。
その食糧難解決のため、安東家では枕の中身に小豆を入れていたので、枕をほどいて、それを煮て、飢えを凌いでいたそうだ。小豆枕は寝ている間中頭が冷えて、頭寒足熱の理に適っており、小さい頃に枕を持ち歩いて重かった手の感触はチャンからの話を聞いて思い出していた。
8.
寒い二年目の冬を迎え、暖房の燃料にも困窮しながらの耐乏生活を経て、ソ連軍からの引き揚げの日取りが日本人居留民に通知されだした。安東家では高齢の八〇歳以上の祖母がいることで、最初の病院船に乗れることになり、それが幸いしたのだそうだが…。大連埠頭までの交通手段がタクシーかトラックというわけにはいかない。
ところが、前任の戦車隊長の衛兵やら中国人の野菜屋を初めとする親切な外国人の世話で、馬車や荷車を動員してくれて、祖母や病後の父はもちろん、人も荷物も無事埠頭まで約12kmを送り届けてもらったのだ。考えてみれば正規のソ連軍が護衛して、中国人の曳く馬車や荷車の行進だったのだから、普通の引き揚げ風景とは違っていたはずである。
9.
乗船までに荷物検査をされ、ソ連兵のほしがる時計やらを取られはしたそうだが、チャンのロシア語の応答でうまく切り抜け、相当量の荷物を持ち帰れたのだから、他の日本陣とは異なった恩恵に浴して引き揚げてきたのだった。
もっとも、写真のなかで大連付近の風景写真はアルバムから剥がされ、懐かしい場所の写真が何枚か没収されていた。何でも防諜上の必要からだからだそうが、いかにソ連が戦略上神経を使っていたかが分かる。
このような状況で、懐かしの大連港を出帆し、帰国の途についたそうだが、両親の無念は計り知れぬものだったろう。
秋月へ
父仲介は2日ほど母の里に泊まって旅の疲れがとれると、自分自身の郷里に単身で行って来るといって出かけていった。
安東一家の仮のねぐらを求めてで、いかに郷土の地に贈り物をしていたとはいえ、敗戦後の人情は別の話であり、人それぞれに自分たちのことだけで精一杯の頃だったから、どのような境遇が待っているかはまったく未知数だった。だが、父が行ったところ幸運が待ち受けていたのだから、捨てる神あれば拾う神ありの喩えの通りだった。
父仲介が満州に渡る前の数年間、母校の秋月小学校の代用教員として教鞭をとっていた時代の教え子が、白水家の近くに木造茅葺のこじんまりした別荘を建てていて、それを「安東先生が引き揚げてきて難儀だろう」と新築の別荘を無償で提供してくれるという夢みたいな話が待っていたのだ。その奇特な人は40歳くらいで竹重といったが、それから父仲介が東京に出た昭和二七年まで住まわせてもらったのだからありがたい存在だったのである。
その話を持ち帰ってきた父と協議の結果、明治生まれの親爺は折角の帰郷には吉日を選ぶべしとの発想で、昔流でいえば“紀元節”を二月二一日の引越しの日と決めた。
その手はずを整えるための事前準備をして、いよいよその日がきたわけだが、博多駅から22個の荷物を*3チッキにして、ローカル線の甘木駅を利用し、人と荷物は甘木駅頭までともにした。
甘木の駅からは、父の幼友達の“お時さん”の好意で大八車を借り、秋月まで約6キロメートルの登りばかりの道筋を男ばかりで引っ張り上げ、竹重別邸に落ちついたのだ。
約一年半の俄か百姓の生活に別れを告げたのだが、三代を出るときに色々とお金が必要なはずだからと、太三さん夫妻から過分の餞別金を貰ったのが、涙が出るほどありがたかったし、その後の当座の資金になったのだ。
秋月の父の郷里に落ち着きはしたものの、次の日から遊んで暮らすというわけにはいかない。さっそく町の有力者にかけあって、これからの生計の立てる方策を考えなければならなかった。
上の姉、下の姉は綿加工の工場で働くことになり、父とジュンは林業がその町の一つの産業だったこともあって、引き揚げ者に割り当てられた町有林の伐採に出かけることに当面の仕事は決まった。
三代の頃とは違って配給に頼るしかない、米や小麦粉、そして乾麺類では今までの食生活のペースでは、一ヵ月分の配給が一〇日分しかなく、芋類から野草類に至るまで、何でも食えるものを混ぜ合わせて量を増やし、糊口を凌ぐ生活に入ったのである。
そうこうしているうちにジュンの将来を考えていたのだろうが、父仲介がある晩、「いつまでも秋月に留まらず、進学しろ」と言い出した。
新聞紙上には、そろそろ春の受験シーズンに入る記事が出始めていたが、ジュンも、中学5年間で勘定をしても、丸一年は人後に落ちている年恰好だったし、進学と言われても旧制高校三年、大学三年の六年間の学費の保証はどこにもなかった。当時、何がしかの育英資金を受けながらの苦学の方策はあったにしても、資金的には微々たるもので、1ヵ月の下宿代にも満たない。
中学2年の頃からの五高志願の気持ちは捨て切れなかったものの、6年の歳月を経て、社会人になる道程は、そのときの環境から気の遠くなるような夢でしかなく、結局ジュンは、月謝の比較的安い官立の工業専門学校か、師範を受ける二つの選択肢しかなかった。
卒業年限3年で新たな人生の道を開くべしと考え、両親と協議を重ねたが、当時教職についても給料は低かったし、一昨年福高の口頭試問を受けたときの信念通り、“貿易立国”すなわち
“工業立国”と考え、工業専門学校しかないと判断したのだ。九州の地で官立の工専といえば、北九州の明専、熊本の熊工、そして久留米工専の3つであった。
大連一中時代、近くに満鉄がスポンサーの南満工業というのがあったが、通学の行き帰りに接するその学校の学生のレベルは一枚も二枚も低いと感じていたが、それと同等のレベルまで落とさざるを得ない環境が、そのときのジュンの境遇であったのだ。
* 1 パンパン:1945年以降の占領統治下、主に在日米軍将兵を相手にした街中の私娼( 街娼)を指す言葉。
* 2ABCD包囲網(ABCDほういもう):1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。“ABCD” とは、制限を行っていたアメリカ (America)、英国 (Britain) 、オランダ (Dutch) と、対戦国であった中華民国 (China) の頭文字を並べたものである。ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ばれる。
*3チッキ:(checkから)鉄道などが旅客から手荷物を預かって輸送するときの引換券。手荷物預り証。転じて、手荷物として輸送すること。また、その手荷物。
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