プロローグ  満州に生まれて

 「キラッ」と槍の穂先が月の明かりで光った。
 「大刀会、大刀会」と呪文のような声が、遠くで、また、近くで聞こえてくる。
 時は、昭和七年の秋、旧暦九月十五日、仲秋の名月が冴えわたる中国東北部(旧満州)撫順市の満鉄社宅群は、抗日戦線の匪賊*1に取り囲まれていた。
 六畳の茶の間で当時満4歳の“醇(ジュン)”は、母の膝に抱かれ、姉二人が時折耳をふさぎ、「コワイ…コワイ…」と言うのを不思議に感じながら、無心で母親の胸元をさぐっていた。
 父と中学生の兄は、「匪賊来襲!」の急報と同時に、炭鉱の施設を守るために、38式歩兵銃を担いで出て行ったままである。
 時折小銃の音が響き、二重ガラスの窓越しに抗日戦線の兵隊が行き来しているのが見える。無気味な数十分が真夜中の社宅群を包んでいた。

 満鉄(南満州鉄道株式会社)は日本の国策に沿って南満州鉄道の営業権とその周辺の資源開発を拡大しつつあり、良質の石炭が採れるここ撫順炭鉱は、日本の富国強兵策の一環で中核的な存在であった。
 昭和初期の不況が金融恐慌を生み、六千万の日本人が四つの島に溢れ、失業者は増え続け、特に、東北地方の農家は、引き続く冷害と重なって娘まで売る悲劇が相次いでいた頃、日本政府は活路を新天地「満州」に求めたのである。
 中国側から見れば、日清・日露の戦役で収益を獲得した日本が、次々にその利権の拡大を計るのを阻止しようとしてゲリラ戦を挑んで来る。これが抗日派で、日本側から見れば匪賊であり、「鉄道爆破」「炭鉱施設破壊」を狙ってくるのに対抗して、関東軍の守備隊は、拠点拠点に駐屯してこれらを守っていたのだ。

 たまたまその時、その晩は、奉天(現在の瀋陽)の関東軍指令部では、仲秋の名月にかこつけて、軍の幹部が一堂に会し、「月見の宴」を張っていた隙をつかれたのである。
 炭鉱襲来を策した抗日派の数個大隊も、その留守を預かる撫順守備隊の留守隊長の指揮下で、守備隊兵士、満鉄社員、中学生以上の男子の三段構えで防衛戦をいち早く敷かれては目的を達せず、帰りがけの駄賃とばかり腹いせに、無防備の社宅群に襲来・略奪をはじめたのだ。
 ジュンのいた永安台の社宅に押し寄せた抗日派は数も少なく、固く閉ざした扉をこじあけてまで進入することはせず、ウロウロしていたのだが、その内、別の社宅群の方で紅蓮の焔が上がり、夜空を焦がし始めた。その状況を見てか、今までいた匪賊はそちらの方へ、「大刀会」「大刀会」と掛け声をかけながら移動して行った。
 のちの満鉄哀史によれば、その社宅群では社宅の家々に火をかけられあぶり出された婦女子は、無意識の中に我が夫、我が父がいる炭鉱防衛隊の方に向かって逃避しようとして、銃弾に倒れ、槍に突かれて死傷したのである。
 このような悲惨な非戦闘員の殉難者を多数出した報復に、関東軍首脳は、抗日派が炭鉱襲来にぜひ通らねばならなかった中国人部落の李海溝を、そのあと数日を待たずして、蟻の這い出る隙間もないように取り囲み、そこの住人三千人を“通報しなかった”ことを理由に、老若男女を問わずことごとく打ち殺したのである。

 これを揚拍堡事件として、太平洋戦争の敗戦と同時に、中国国府軍下の人民裁判にかけられた、当時の撫順炭鉱長は銃殺刑に処せられたのであった。
 醇の父長介も、当時炭鉱の人事課長としての地位にあり、同じく人民裁判にかけるべく、戦後国府軍が血眼で捜していたそうだが、幸い長介は、直接ソ連軍が占領した大連に移住していたため、その内に中国の内戦で、国府軍*2と中共軍*3の戦闘が激しくなり、中共軍の勝利となるに及んでウヤムヤとなり、九死に一生を得ることとなった。

 この事件を境目として、関東軍は匪賊討伐の作戦を積極化し、のちの日本の運命を決定づけた東条英機が、「カミソリ東条」の偉名をとる討匪行を関東軍首脳と呼応し、次々と実行に移していったのである。
 昭和八年になると、ようやく治安が回復した南満州では、さらに満州に働き口を求めて渡満して来る日本人が増加の一途を辿り、王道楽土、五族協和(日、満、鮮、漢、蒙)の理想郷に変貌しつつあるかに見えた。

 当時の撫順は、今でいうナイター設備まで整っているスケートリンクで、日本人居留民が夜遅くまで滑って楽しめる冬のスポーツシーズンが四カ月間もあった。ジュンの一家でも、両親、兄姉はもとより、当時内地から父長介を頼って渡満して来て就職口を求めるイトコハトコが居候していたプラスαを加えて、一家総出の夜間スケートを楽しんだものだ。
ジュンの記憶は、おぼろげながら、まだスケート靴が履けず、ゴム長靴を履いてリンクの上の母親を追いかけ、兄や姉やイトコハトコから抱き抱えられては、置き去りにされ、それを繰り返されて無性に悲しく、泣き喚いていた記憶が鮮明に残っている。
 
 とにかく、治安が良くなった撫順市の満鉄社宅では、炭鉱から直結された蒸気が各戸に入っており、風呂を沸かすにもバルブをひねると五分足らずで沸くといったような厚生施設も充実しており、冬は冬で産地ゆえのただ同然の石炭をストーブでガンガン焚いて、家の中では浴衣一枚でビールを飲むのが若者達の楽しみだったようだ。
 内地*4各地から集まって来ている日本人仲間では、花札や百人一首が流行したり、土地柄もあって麻雀に興ずる連中も多く、このような生活の一部を内地から短期間遊びに来て垣間見て帰った人々は、満州が極楽に見えたはずである。末っ子のジュンは、大所帯のアイドル的な存在だったらしく、夏などは風呂から上がると素ハダカで家の前の道路に飛び出し、姉達がバスタオルを持って追っかけて来るのが面白かったのか、逃げ回って喜んでいたそうだ。
 
 昭和九年に至り、父伸介は満鉄本社総裁付を拝命し、本社勤務となり父母にとっては忘れ得ぬ撫順をあとにして、大連の南山麓満鉄社宅に移り住むこととなった。

* 1 匪賊:集団で略奪・殺人・強盗などを行う賊。匪賊とは清国時代、封禁を破って満州に侵入した漢人のうち、集団を作って悪事を働いた者のことである。(編注)ただし、この文脈では日本側からの表現となっている。
* 2 国府軍:主に蒋介石時代の中華民国軍のこと*1。中国国民党の軍隊。国民政府軍?の略称。「中共軍」の対義語。
*3中共軍:中国共産党軍。略称は中共(ちゅうきょう)。中華民国(台湾移転以前)および中華人民共和国における共産主義政党。
* 4 内地 - かつて日本で、わが国固有の領土を指していった言葉。すなわち、台湾、朝鮮、満州や、樺太、南洋信託統治領といった植民地などを除いた領土を指す。対義語は「外地」。