ジュンの幼年時代

アカシヤの大連


 「大連(だいれん)」とは、一度でも満州に渡って住み着いた者でも、通りすがりだった者でも、忘れ得ない、東洋一の不凍港を擁し、「東洋の真珠」と称せられる、欧州風の見事な街並みの帝制ロシヤが造った別天地だった。
 その大連の一角、南山麓(なんざんろく)は、大連の中心街の南に聳える標高三百米程の山の麓に拡がる丘陵地帯で、今でいうベッドタウンだった。
 瀟洒な洋館造りの外国人マンションや、中国人(華僑)の大金持ちの邸宅のあるところで、満鉄の課長以上の社宅群もその中に建ち並んでいた。
 ちょうど、当時の大広場(現中山広場)から山の手の南山に向けては、東洋一の満鉄病院や神明高等女学校があり、南山の麓の一角には大連神社が建立されていた。ポプラとアカシヤ並木が整然と車道・人道を区切り、街燈も整備され、上下水道が完備とあっては、それは見事な街であった。
 その大連神社も、戦後、鳥居は倒されてしまったそうだが、ジュンは、その境内で走り回って遊んだり、夏祭りには内地から「博多*1仁和加(にわか)」がやって来て、博多コトバの漫才が面白かったので、カブリツキで見たりもした。

 自称「石炭の中から生まれて来た申し子だ」と、撫順生まれを遊び仲間に吹聴していたジュンも、ようやく大連の地にもなじんで来たが、何分にも南満のまた南端の関東州(清国より九十九カ年の租借地)といえども、厳冬期には、マイナス十度から十五度になることもあり、当時、就学前の子供達は幼稚園に通う子も多かったが、ジュンは引っ越して来た時期が中途半端であったため、幼稚園には行かず、真冬はどうしても家の中で遊ぶことが多かった。母親が裁縫している横で、姉達の使い古しの積み木で、一つ一つ落としてその裏表に書いてある「アイウエオ」のカタカナ、ひらがなを一々母親に教わりながら憶えていった。
 また、撫順では大型の郊外電車が轟々と音をたて、走る姿を目にしていたのに比べ、大連市内では、いわゆるチンチン電車が1号から11号までの系統で縦横に走っていたのが、かえって珍しく子供心に鮮烈な印象として心を引いたのか、畳のヘリを電車の線路に見たて積木の電車を押して、次は「実業学校前」などと唱えて一人遊びをしたりもした。当時の子供は、ちょっとした玩具で工夫しながら遊んでいたものだ。
 家では、撫順時代のイトコ・ハトコが減ったためか、日中は、父が勤めに出かけ、兄姉が学校に行ってしまうと、あとは祖母と母親とジュンだけで、広い家の中は静かなもので、特に二階に上がると何かコワイような気がして滅多に二階には行かず、もっぱら一階の祖母の部屋か、母親のいる茶の間が遊び場所だった。


キクエさん


 その中、内地旅行で一ヵ月位いなかった祖母が、ジュンが南山麓小学校のピカピカの一年坊主になる寸前に、春の訪れと共に、キクエさんという長崎県五島出身の十七歳の娘さんを連れて帰って来た。
 今考えてみると五島の漁民も子沢山だったのか、何でも家事見習いと称して、成長するに及んで口減らしのため、九州一帯の豪農の家に*2「女ゴシ」「男ゴシ」として働きに出される風習があった。たまたま祖母が長崎にいる自分の娘(ジュンにとっては伯母)の所に立ち寄ったとき、「五島の娘じゃが、頭のいい女の子で、農家に働きに出すのは惜しい」ということで、それでは満鉄病院の見習い看護婦の試験でも受けさせては……と連れて来たのがキクエさんとの出逢いとなった。
 ちょうど、兄の年頃と似合いのキクエさんは、それはそれは、朝早くから起きて家の中の掃除を初めとして、ジュンの母親の手助けをしてくれる利発な子で、漁師の子らしく、ハキハキもしていたし、また、身体をいとうことをせずに、良く動き回る働き者であった。
 朝十時頃から、一息ついたところでやおら祖母が花嫁修業とかで稽古事を教えていたようだが、その中に、見習い看護婦の試験の日程が決まった頃から、キクエさん特有の猛勉強が始まった。自分の部屋として与えられていた狭い四・五畳の部屋で、夜の夜中にジュンが寝ぼけ眼でトイレに行くときでも、キクエさんの部屋はいつも灯りがついていたものだ。
 ジュンは子供心にも、キクエさんのいい面ばかり眼について、昼間は母親よりも「キクエさん」「キクエさん」とまつわりついていた方が多かったようだ。


*注1 仁輪加(にわか):即興的に演じる滑稽な寸劇。俄とも書く。
*注2 女ゴシ:(住み込みの)女の人、女中、家政婦、メイド、お手伝い。女衆。掃除・炊事など家庭内の雑用をするために雇われている女性⇔男ゴシ