小学校時代

南山麓 / 内地旅行 / 大連という環境 / 気がつけば分娩室 / 光明台 / 馬の交尾風景 / 関東軍機甲部隊訪問 /
卓球大火傷 / 詩吟修養 / 運動会の季節 / 野球狂騒曲 / 修学旅行 / サッカーシーズン / アイスホッケーシーズン / 
卒業・進学 / 助け合い

 南山麓

 昭和十年四月、ジュンは就学年齢に達し、晴れて南山麓小学校の一年生となった。
 小学校までは歩いて二十分位かかったが、一年生の頃の学校は半分遊びみたいなもので、一年一組の担任の佐藤先生もおっとりとした良い先生だったせいか、コセコセするようなことは一つもなかった。
 ただ、生来のワンパク心が鎌首をもたげて、級の中ではすぐにガキ大将格となり、ジャングルジムのてっぺんから落ちて気絶したり、生傷の絶え間なしで、学校の医務室の出入りは多かった。
 当時、健康増進のためか、毎日肝油を医務室で2時限終了時に飲まされたり(妙な味で決して旨いものではなく、そのあとでドロップを一つ貰うことのためにシブシブ飲んだもの)、毎週水曜日に低学年の子供達は太陽燈を浴びる決まりだったが、男生徒は、素っ裸のフリチンでほり込まれるのが常で、女生徒は、当時はズロース(今はブルマというらしい)といっていたのを穿いていたのが気に入らず、太陽燈室内には先生が入って来ないので、ワルソー小僧の何人かで“女の子も全裸じゃないと全身に太陽燈が当たらぬ”と言う理屈をつけて一人一人脱がすエッチな行動をしたりもした。
 その頃の東洋的教訓では、「男女七歳にして席を同じうせず」と言うことだったが、どう言うわけか太陽燈室では初めの頃は、男女混浴?だった。どうせ先生に告げ口をした女の子がいたのだろう、そのうちに男の子と女の子が別々にされて、「ガッカリ」したのを記憶している。

 大連も春三月の半ばを過ぎる頃から、水もぬるみ始め、池にはオタマジャクシの卵が見られるようになり、学校帰りの寄り道で「弥生ヶ池」には、よく春を見つけに行ったものだ。
 今どきの過保護ママが見たら卒倒するような危険な水際で、大人の人がスッポンを釣り上げているのをこわごわ覗いてみたり、夏が近づくにつれてオタマジャクシを掬ったり、青大将の蛇をつかまえて、手にぐるぐる巻き付けて家に持って帰っては姉達をキャーキャー言わしたものだ。
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内地旅行


 一年の夏休みに入るとすぐ父伸介は、東京出張に引っかけて、家族連れの内地旅行を思い立ち、祖母と上級学校受験を控えた兄を留守番役にして、母、姉二人、ジュンの五人で旅立った。当時、日満連絡船は、一万屯級の大阪商船の優雅な船が、週二便大連〜神戸間を往復していた。
 まず神戸の伯父宅を出入りの拠点に、二十余日かけ日光から雲仙までの縦断内地旅行の日程をこなした。余り各所を回り過ぎたせいか、長じるに及んで強烈な印象の個所しか憶えてないのが、残念といえば残念だ。
 父伸介は、内地の有名ゴルフ場巡りが目的の一つで、自らは家族と別行動の日もあり、日光ー川奈ー六甲ー別府ー雲仙とつないで、今思えば垂涎のコース巡りだったのである。
 ジュンの思い出としては、
一、東京の帝国ホテルで食べた西洋料理が旨かったこと
二、日光の中禅寺湖で、下の姉とトンボを湖畔で追っかけたこと
三、神戸須磨の海水浴場で、上の姉と浮き袋をつけて沖に出たのはいいが、空気が抜け出して姉にしがみついて岸に辿りついたこと
四、別府の亀の井バスに乗り、地獄廻りをして、地獄湯でユデ卵を食べたこと
五、九州の母の里の夏祭りに浴衣がけで出かけ、茶店で一服したとき(カンシャク玉を豆に入れていたずらした者がいた)、カンシャク玉を噛んだ瞬間破裂し、口の中から血を出したこと
六、同じ九州の父の里では、やたらご先祖様の墓参りや、お寺に行かされたこと
七、雲仙のゴルフ場に登って行く道筋が“つづら折れ”でものすごく車が揺れたことぐらいの他は、ほとんど記憶になく、やはり小学校一年坊主の時期は、コンピュータの容量が小さかったのだ。
 日満航路の一等船室での二拍三日の往復の船旅は、ゆったりとして優雅なもので甲板に出て輪投げなどをして興じたりもした。また、神戸〜東京間の特急「つばめ」号の展望車に乗って、初めて見る富士山は素晴らしかったのだが、その快適な旅の話を夏休みが終わって二学期早々学校の友達に話したら、皆から羨ましがられた。
 当時、満鉄の中堅社員の採用は、大半が東京の一流大学から人選して内定していたのだが、丁度学生が夏休みに入ってすぐの時期であり、父伸介は毎年その時期は年中行事みたいに東京事務所に出入りしていたから、この旅行計画は、前々から考えていて家族サービスをしたわけであったが、昭和十年に実行して正解だった。このあと二年後には、*1支那事変が勃発していることを思えば、ラストチャンスだったわけだ。
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大連という環境


 二年生に進級する頃には、近所でも友達が出来てきたりして、良く広い道路を利用しての缶蹴りが流行り、向かいの外国人用マンションから、金髪の子や、縮れ毛の子、白色、黄色時には黒色も入り混じっての国際的?缶蹴りになることもたびたびであった。
 言葉は通じずとも、子供の遊び心は一つで、当時大連が自由港であり、諸外国の領事館や、貿易商の子弟も近くに住んでいるのは至極当然なことであり、ジュンは知らず知らずの中に小さい頃から、国際感覚が身についた面もあった。
 子供達も遊び疲れて来ると、アカシヤの木陰で「サイタ、サイタ、サクラが咲いた」と教科書を持ち出して、外国人の子に教えたり、「A PEN」「A BED」と逆に英米人の子に教えられたりで、青い目の子供と一緒に、真面目くさって絵本などを持ち寄ってのお互いの異文化の交流が、至極自然に行われていたのだ。

 小学校低学年でのアクシデントといえば、大連神社の裏山の崖から十数mコロゲ落ちて、身体のアチコチをすりむいたり、明日が秋の大運動会ということで、嬉しくてたまらなかったのだろう……青竹を持ってチャンバラゴッコをしていたのか、広い道路を走り回って、乗用車に跳ね飛ばされたことがあった。
 南山麓には、課長級の社宅の他に満鉄理事、参事級の高級社宅もあり、その偉い人が乗った車にチャンバラ用の竹の棒を、明けたままの車の窓に突っ込んで飛ばされたらしいが、車が徐行していたにも拘わらず、ジュンの体重では、跳ね飛ばされたのである。
 しっかり握っていたその棒を離せば良かったのに、子供の浅知恵というか、遊びに夢中で死んでも離さなかったようだ。跳ね飛ばされたハズミで、頭から道路に真っさかさまに落ちたそうだが、目から火が出たという表現は確かに本当だった認識はある。
 血まみれの上にタンコブが出来て、さすがのジュンもワーワー泣いて大騒ぎとなり、近所のオバさんと、当たった車の運転者が家まで送って来た。母親はウロたえてしまい、十一歳年上の兄が先祖伝来の漢方薬(外曾祖父が黒田藩の御殿医だった)である“イモグスリ”なるものをすぐ作って、頭の半分以上に塗りつけ、一晩でタンコブはへこんだが、かなりの石頭だったのだろう……頭蓋骨は大丈夫だったのである。当時は、レントゲンをとるとか、車の対人保険がどうとかということもなかったのか、現時点で考えれば「鷹揚な時代」だったのだ。

 夏休みともなれば、大連は三方海に囲まれ海水浴や釣りには恵まれた環境のリゾートだったので、夏休みの宿題を何とか早くこなすことを心掛け「全部済んだ」(実はウソで、工作とか絵日記、昆虫採集の標本作りはあとあとになる)と称して、父親や兄姉達で良く出掛けて行った。
 日露戦争の激戦地の旅順までの中間に、夏家河子という満鉄経営の海水浴場には、旅順の汽車に乗って約四十分だったが、再三行ったものである。朝早くから家族総出で行き、遠浅の海で泳いだり、チヌやハゼ釣りを楽しんだり、日の暮れるまで帰らなかったこともたびたびであったし、また、父のゴルフとの相乗りで、市内電車で行ける星が浦(今の星海公園)の海岸にも出掛けることも多かった。
 洋食を食べさせて貰うのが目的で、良く姉弟で作戦を練って昼食時にヤマトホテルの食堂で、父のゴルフのメンバーが上がって来る少し前から待っていて、ついて行ったものである。
 何も、海水浴シーズンだけでなく、春が来れば潮干狩りや桜の花見、初夏のアカシヤのシーズンと色々あり、親爺はゴルフのときは、ご機嫌であるのを充分利用しておねだりできたのだ。
 また、釣りは四季を通じてでき、父と兄と共に良くそのときどきの狙い目の釣りを楽しみに出掛けたものだ。真冬のカレイ、春先の鯛、夏のキスやカニ、秋の太刀魚と、漁場もいろいろあるわけだが、何といっても旅順沖での鯛釣りは、ポンポン船を全速力で走らせる勇壮なものであった。良く「エビで鯛を釣る」というたとえがあるが、エビがいかにも元気で泳いでいるようにするために、15〜16ノットの速度で水飛沫をあげて船が走る必要がある。それがジュンにはこたえられぬ快感だったようだ。今にして思えば、中国人は特定の魚しか食べないので大連の近海は魚の宝庫で良く釣れた「釣り天国」だった筈である。後年、終戦後、内地で何度か釣りに出掛けて、サッパリ釣れず、内地の魚は、“ズルイ”と言い続けたものだ。
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気がつけば分娩室


 昭和十二年になり、ジュンが小学三年になった頃、例のキクエさんも、見習い看護婦から正看護婦となって、今までの小児科外来勤めから、産婦人科の病棟勤めとなった。外来と違い病棟勤務は完全三直制で、昼勤、準夜勤、夜勤があり、ジュンは、キクエさんが夜勤の時には、時折、病棟看護詰所の仮眠室で、キクエさんに抱かれて寝ることもあった。
 家から二十分もかからなかったから、大概土曜日の夜勤には、キクエさんのほうから電話があり、夜遅くから出掛けて行った。ジュンの気持ちの中は、就寝までの時間に(多分看護婦詰め所は患者さん達からの贈り物も多かったのだ)、キクエさんともう一人の相棒の看護婦さんと三人で、トランプなどしながら、オヤツ・果物を食べられるのが、狙いであったのだろう。

 ところが、何遍かそのようなことを繰り返している日のある晩、大騒動が発生した。ようやく遊び疲れて深く寝入った頃、キクエさんがジュンを無理矢理起こして、悲鳴に近い声で「赤ちゃんが生まれる!手伝って……」と叫んでいた。
 キクエさんのその様な慌て振りは一度も見たことがなかっただけに、ジュンは、寝ぼけ眼で一瞬何が何だかわからなかった。事情が飲み込めないまま分娩室の方へ、お湯を運んでくれるように言われ、持って行くと、また、空豆の形をした大きな医療用の受け皿みたいな物を取って来るようにとのことで、テンヤワンヤである。
 当然、病院では当直医がいて、急に産気づいた産婦が出れば、すぐに医師が駆けつけるはずがその晩はなぜか当直医が来なかったのである。お陰でとばっちりを喰らったジュンは、詰め所と分娩室を行き来して、眼が醒めるに従い事情が分かり、キクエさんの助手?を努めたわけだが、その中、「オギャーオギャー」と元気な産声が聞こえて来て、一段落した。
 普通なら男の子が入るわけもない分娩室をジュンは、十歳足らずのときに、いやでも見てしまったのであるが、さすがに分娩のためのベッドの構造は奇異に思ったりもしたが、それよりも生命の誕生の神秘を思い知らされた。
 キクエさんは、そのあとも後始末でその夜は一睡もできなかったようだが、次の朝、朝食のあとで、ジュンに産婦人科の病棟内の標本器具等を見せてくれた。恐らくキクエさんも考えた末だったのだろう、死産した胎児のアルコール漬けや、異常分娩のときに使う諸道具やら見せてくれて、揚げ句に「生命の尊さ」と説いてくれた。
 比較的早熟気味のジュンにしては、丁度良いタイミングで性教育を受けた結果となったのだから、偶然とはいえ良かったのだろう。
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光明台


そうこうしている時、伸介は永年の社宅住まいから一軒の洋館造りの家を建てることとなり、ジュンも建築中の工事現場に、誰彼に連れられて行くようになった。今思えば、建坪八十八坪の鉄筋二階建てが、当時二万二千円でできたわけで、平成の時代から見れば夢のような話だ。
市電に乗って四十五分、さらに歩いて十五分の新興住宅地で、そのあたり一体の総称を光明台と言っていた。その後市バスも通る予定に至っていたが、碁盤の目に仕切られた整然とした都市計画に基づいた街で、ロシヤ風の街から一転して、日本人が造りつつある街だった。
 足掛け四年の南山麓から、三年の二学期が始まる頃に、ジュン一家は引っ越して来た。その年の七月七日に、盧溝橋の銃声一発から支那事変が勃発していたが、大連には何の影響もなく、ジュンにとっては転校の方が大きかった。
 九月一日に光明台小学校の三年二組に編入され、そこの一員になったのだが、子供心にも転校は決して楽しいものではなく、新学期から一カ月近くは、実に無口でおとなしい子供に見えたのか、母親参観日に担任の先生から「オトナシイお子さんですね」と言われて、母親は頭をかしげて帰って来たようだ。
 女は、「三年猫を被る」と言うが、血の気の多いジュンは一ヵ月も静かにできなかったようで、級の中でのガキ大将格の子と殴り合いのケンカとなり、クラスの中で一騒動を起こした。(その喧嘩の相手が、五年、六年になっての少年野球でバッテリーを組んだ久道君だった)。
 当時は、軍国主義の台頭の時期でもあり、男の子が一悶着起こしても、学校の先生は見て見ぬ振りしていたようだ。いつの時代でも変わらぬと思うが、小学校の頃は、クラスの主導権は、級長ではなくガキ大将が握ったもので、いわば、猿の社会も、子供の社会も大差はない。
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馬の交尾風景


 その年の冬頃から、光明台小学校の講堂に内地から関東軍に編入されるべき兵隊達が入れ替わり立ち替わり泊まりだした。大抵は歩兵の部隊だったが、その中、輜重兵や、騎兵も来だし、また、日本人の民家に家の大きさにもよるが、二人から三人を泊めるよう割り当てが来だした。
 当時は、満州では特に軍の力で居留の日本人は守られていると言う意識があってか、「兵隊さん、兵隊さん」と“大事”に扱われたのである。真冬には、学校周辺に残留している軍用トラックのエンジンがかからぬとかで、日本人家庭に熱湯を貰いにきたりした。

 春先には、ジュンもビックリの事態が発生した。というのは、牡馬が学校の校庭でイキリ立っていた。それは騎兵連隊の馬の交尾期で、兵隊達が五〜六人がかりで、今にも地につきそうな長い馬の一物を牝馬にドッキングさせつつある光景は、熾烈であった。一人の兵隊が口輪をとり、両側に一人ずつ首筋を押さえている兵隊と肝心の一物を握って手助けをしている兵隊が主役だ。
もちろん牝馬もイキっているわけで、そこにも兵隊が口輪をとっている。そのすさまじい動物の本能を目の当たりにしてジュンとそれを見ていた子供達は異様な感じを受けたものだった。あとでそれらの兵隊達が子供に教えてくれたのでは、「馬を本当に飼い慣らすには交尾期の手助けが一番大切」で、分かったような分からぬような気持ちで、大人の世界は子供には“わからぬことだらけ”と思ったりもした。
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関東軍機甲部隊訪問


 三年から四年に進級する春休みに、ジュンは母親が、「自分の甥が公主嶺(現長春のわずかに南)の戦車隊にいるので面会に行くからついて来るように」と言うことで「亜細亜(アジア)」に乗ってまずは新京に着いて、ヤマトホテルに一泊し、次の朝鈍行で公主嶺に向かった。
 アジアは夢の超特急だったが、大連からハルピンまで、関東州を出ると一直線で、停車駅は、大石橋、奉天(現、瀋陽)、新京(現、長春)、そして終点のハルピンであった。昼前に大連を発ち、夕方新京に着いて、ヤマトホテルに一泊し、次の朝鈍行で公主嶺に向かった。

 時の関東軍の機甲部隊ーーその中核である戦車隊の基地が、ダダ広い満州の平原の一角にあった。周囲はほとんどが高梁畑なのだが、その一点だけが、戦車群が偉容を誇っていた。この戦車隊が、後々のノモンハン事件から大東亜戦争(戦時中は太平洋戦争とはいわれなかった)の南方作戦に参加したことは、戦史の示すところである。
 内地の肉親でなく、満州の「お袋さん」と慕われていたジュンの母親が来てくれたことで、ジュンの従兄に当たる亮一軍曹殿は大いに感激していたようだ。隊務があるということでわずか三十分程の面会時間だったのだが、このとき、ジュンの幼心に、関東軍の姿が初めて意識の中に宿ったのだ。
  面会後は、再び新京に戻って、お土産を買って帰路についたが、ロシヤ飴とソーセージが皆に喜ばれた記憶が強く残っている。
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卓球大火傷


 ジュンは、四季を通じてフル回転していて、四年二学期頃から級のリーダー格にのし上がっていたが、秋の大運動会が済んで冬休みも近づく頃、とんでもない大ヤケドをしたのだ。
 ちょうど、卓球を憶えてその面白さが分かって来た頃、学校で卓球をしていても、五・六年の卓球部の連中に放課後は取り上げられる羽目になるので、友達を家に連れて来て、二階の踊り場で卓球をした。卓球台は少々小さいのだが、兄が西式健康法とやらに凝っていたーーそのベニヤ製のベッド(ベニヤ板そのものを机の上に載せネットを張って改善工夫したもの)だ。
 子供の頃は、ある時期何かに取り憑かれるとそればかりに凝ることがあるが、ご多分に漏れずジュンも一時卓球漬けになった。
 十一歳年上の兄が、大学卓球部に所属していた影響もあり、ラケットサバキがどうのこうのと夕食のとき姉達にも講釈をしていたが、こともあろうに風呂場の中で壁に向かって始めたのだ。
なぜ風呂場でか…満州も冬が近づくにつれ、足元からシンシンと冷えて来だすと、風呂場が暖かいという道理だ。たまたまピンポン玉が風呂場の蓋の上に落ち、それを拾おうとして片足を蓋の上に載せた瞬間、蓋が完全に閉じられてなかったらしく、沸き過ぎた浴槽に両足から落ちたのである。火傷の度合いから言って九十度近くになっていたらしく、長い靴下を脱ぐとベローっと皮がめくれ、家中大騒ぎとなった。
当時は救急車はなく、すぐタクシーを呼んで日赤病院に連れて行かれたが、“人間は表面積の三分の一を火傷すると生命にかかわる”と言われ、ヒリヒリするのと、母親が半狂乱で泣きながら喚くのを、ジッと耐えていた。
 お陰で学校は二週間程休み、やっと三週間目から、母親が車椅子を押して登校しだしたが、「身体八腑これを父母に享く……」の論語の言葉をイヤと言うほど味あわされた。
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詩吟修養


 ヤケドのお陰で、好きなスポーツができなくなり、その頃心ならずもやはり「軍国の母」だったのだろうか、ジュンは母親から大連神社に詩吟を毎週土曜に習いに行くことを命じられたのだ。ジュンはシブシブ通いだしたのだが、男の子はそれなりの肝もできなければと言うことで、精神修養が大義名分だったが、わずか二時間の稽古とその電車で通う往復時間が惜しくて仕方がなかった。母親が異常な力の入れようで、何らかの理由をつけて一週飛ばすと、次の週の平日の夜に詩吟の先生を自宅に呼ぶ始末で、これにはジュンも閉口し、カブトをぬいだものである。
 また、詩吟の合間には剣舞を習い、吟じて舞うということもしたが、それが五年のときの学芸会に役に立った。当時、小学校の学芸会は、割合い派手であったが、午前の部、午後の部と分かれ、朝九時から夕食四時近くまで丸一日がかりだった。五年二組のメンバーは「白虎隊」を演じ、その中でジュンは「少年白虎隊」の詩吟を唸らされて従容にして死についた……。 今思うと教育の力は恐ろしいもので、それが学芸会ではヤンヤヤンヤの拍手喝采だったのである。
 後年になるが、後述の海軍兵学校在学中にも、その詩吟が役に立ち、「芸は身を扶く」とはこのことで、へんな所で母親に感謝した一駒もあった。
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運動会の季節


 五年に進級する頃から、春と秋の大運動会や、学校対抗の野球、サッカー、アイスホッケーと次第に低学年のときより活躍の場が拡大されだすと、級内のエネルギーは一つにまとまり、特に対抗競技にはパワーが結集されだした。 校内では、大運動会のリレーの選手に選ばれるべく、脚力に自信のある子は、共に競い合いしたものだ。
 ジュンは、毎年百メートル走と障害物競走、そして学年対抗リレーの三つは必ず出て、一等は赤リボン、二等は青リボン、三等は黄リボンを貰ったものだが、三つの競技に出て三つとも赤リボンがつけられたのは五年の春と秋の二回しかなかった。
 当時は、差別とかなんとか言うこともなく、力のある子が競技にも多く出たし、蝶結びになったリボンを次の日まで着けて、見せびらかすのが格好良かったのである。
 それと学校側も、九十九カ年租借とはいえ、植民地化された大連市では、国威発揚もあって、それぞれ行われる行事が内地に比べれば派手な面が多かったのだろう。
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野球狂想曲


 ジュンは昼休みはもちろん、十分程の中休みの時間でも五年の初め頃から絶えず久道や斎藤を相手に、ピッチングの練習を欠かさなかった。球技の花形は当時でも野球だったようで、皆熱心だったのだ。大連の季節も五月半ばを過ぎれば、アカシヤの花が咲きかけ花の香りがして、スポーツに行楽に最も良い時期となり、その頃から野球大会の予選が始まり、地元紙の大連日日新聞に試合経過が掲載されだすと、盛り上がりを見せたものである。
学校対抗競技が進むにつれ、学校側も父兄も力が入って来て、それもさらに勝ち進み出すと応援に加速がつき、選手以上にエキサイトして来る。光明台小学校は副校長先生がその筆頭で、ジュンは副校長から絶えず「コントロールはいいか」といつ顔を合わせても同じ質問ばかりされていた。六年の部はもう後がないので真剣そのものであった。
 残念ながら、ジュンの級担任の安藤先生は、山形県出身の方で球技には余り知識、経験がなく、女生徒の級担任の野田先生が若い頃からキャッチャー経験の野球通で、放課後の練習は必ず来てくれて、熱心に指導して貰った。たまたま先生が少しでも遅くなると、キャプテンであるジュンが野田先生を呼びに行かねばならぬハメになることもあった。先生が職員室にいないとなると、やむなく女生徒ばかりの六年三組の教室まで行かなくてはならなかった。小学六年ともなると男の子もそうだが女の子の方が色づきが早いようで、言葉は交わさなくても、それとなくテレバシーが働くわけで、妙な気持ちにさせられたことも再三再四であった。

 ジュンの野球チームのベストメンバーは、7.高橋、4.斎藤、5.和田、8.片瀬、  6.渡辺、3.露崎、9.柳原、2.久道、主将1.安西であった。
 六番ファーストの露崎は後年東京の大学でボクシングで鳴らし、その後プロ野球のパシフィックリーグの審判員として、ジャッジのジェスチャーが派手なことで有名になった。
  主将のジュンは、野田先生の指導には素直に従ったが、オーダーだけはジュン自身で考え、五年・六年を通じ先生の案を覆してまでも自分の考えを貫き通した。
 守備面でも、二番セカンドの斎藤が本当は四年当時から正捕手だったのが、内野のカナメに捕手経験者が入ればより内野がシマるということで、今でいうコンバートを子供心ながら考えついたもので、それにより守備力もがぜん上向いたが、それと共に、日の暮れるまでの毎日の猛練習の成果が抜群のチームを作り上げた。
 戦後、西鉄のチームのエース投手「サブマリン武末」の名前を野球通なら認識している人も多いと思うが、当時彼は校舎が隣り合わせの大連高商に在学していて、折りに触れてジュン達のチームのコーチを引き受けてくれていた。
 大連商高といえば、昭和十二年の支那事変勃発から、内地では次第に職業野球(当時はプロ野球とは言わなかった)の公式戦が自粛方向で、昭和十四年の夏には満州の地に読売巨人軍が遠征に来て、エキシビションゲームながら、大連商高と対戦したことがあり、その時この武末投手にキリキリ舞いさせられ、「大連商高に名投手あり」と謳われ、戦後プロ野球に引っ張られる因を作った。
 大連商高時代の武末は、バックネットから見ていると、背番号が見える程の大きなモーションで、当時はオーバースローの豪速球投手であった。それにバッテリーを組んでいた三浦捕手がインサイドワークが旨いキャッチャーで、卒業後は戦争に駆り出されて南方で散華したのだが、もし生きていたら武末以上のプロ野球選手になっていたであろう。

 そのように良い環境の光明台小学校野球チームは、コーチにも恵まれ、六年の時には準決勝まで勝ち進んだが、その試合は7回まで両チーム0−0の末、延長戦に入り(当時の少年野球は7回まで)、延長8回の表に相手の日本橋小学校から2点を奪い勝った気でいたところ、8回裏に内外野の守備の乱れで惜敗した。
サウスポーのジュンの得意球は、右バッターの足元を狙う直球とドロップで、制球力はズバ抜けて良かったのだが、この試合では今でいう自責点0の敗戦投手に無念の涙を飲んだのである。やはり8回表に2点を取って勝ったという気の弛みが、連戦の疲れと共にチーム全体にあったのだろう。
 その後もジュンは、戦時中の野球禁止期間を除いて三十二歳まで草野球を続けるわけだが、少年野球当時のこの敗戦だけは無念の記憶がいつまでも鮮明だ。学校の先生方、両親兄姉、応援の方々からいくら慰められても、とめどなく涙が流れ、その日は寝つくまで悔し涙が涸れなかった。
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修学旅行


 その傷心を慰めるように、秋口に修学旅行があった。三年生のときに母親に連れられて行った新京までであったが、途中の奉天と撫順もそのコースに入っていた。
 奉天一泊、新京一泊、車中泊の三泊四日の旅程で、男生徒ばかり百十人程の修学旅行だった。
 奉天城や、撫順の露天掘りは、当時おきまりのコースだったようで、特に撫順はジュンにとって出生の土地で、ひとしおの感慨があるはずだったのだが、丁度数日前に立杭で爆発事故があったのだろうーー中国人の苦力達の半焦げになった死体がゴロゴロ転がっていたのには吃驚した。今にして思えば、いかに日本人が被征服民族を酷使し、死に至らしめる危険な作業を強いていたか、敗戦後の中国人遺族達の、ウラミ、ツラミは当然のことだったのだ。
 新京では、新生満州国の偉容を誇る皇帝溥儀の宮廷や関東軍司令部の建物が目を引いたが、百メートル幅の大同大街のメイン道路など、とにかく、戦後日本が侵略者呼ばわりされがちな中で、満州開拓時代の遺産が現在でも生きている部分もたくさんあるのだ。

 修学旅行は「アジア」ではなく、修学旅行専用車だったので、超特急ではなかった。列車の中では、ジュン達のワンパク連は、ハシャギ回ったあとのお疲れの時は、荷物を載せるべき網棚が、ちょうど、子供には適当な幅のハンモック替わりの安眠の場所であった。付き添いの先生方も、前夜のマクラ投げ(誰でもやった経験があるはず)や、網棚での睡眠まで、見て見ぬ振りのおおらかな修学旅行を満喫させてくれたのである。
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サッカーシーズン


 修学旅行から帰るやいなや、息つく間もなくサッカーのシーズンに突入した。これは野球と同様の猛練習が始まり、野球のレギュラーがほとんどであったが、ジュンはフォワードの左ウイング、露崎がセンター、和田が右ウイングで、攻撃体制は足の速いもので布陣し、後方のフルバックには、キック力もあり、体重もある片瀬と渡辺が固めていた。
 自分たちの校庭での試合があったときは、応援は大変なもので、特に左右ウイングがドリブル攻撃に入るや、黄色い声援がジュン達のうしろから聞こえて来たものだ。
 サッカーでも次々に勝ち進みはしたが、やはり野球同様、優勝戦で聖徳小学校に0−1で惜敗した。これは相手チームの中に、中国人の子が2人、朝鮮人が1人、計3人がおり、折角攻め込んで行っても、中国人2人のフルバックにボールを取られ、我が方以上のキック力で、ゴール近くまで蹴り返され、攻めあぐんで攻めが続かず、1点差に泣いた。今考えれば、11人の日本人チーム対3人も助っ人を入れた強力チームとの対戦だったわけである。
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アイスホッケーシーズン


 サッカーシーズンが過ぎると、間もなくアイスホッケーのシーズンが到来した。大連運動場のスケートリンクの中では、外周は只滑るだけのコースだが、中の方は長方形のホッケー場をなっていて、フィギィヤとホッケーができるのだ。夕方までは一時間単位で交互に使用する決まりで、ジュン達は、ホッケータイムは目一杯スティックを持ってパックを追い、フィギィヤタイムは、陣取りゲームに熱中し、女の子のフィギィヤ練習の合間をすり抜けて滑りまくっていた。
 毎日、学校の放課後、カバンと弁当箱を近所の同級生に家に持って帰って貰い、寸秒を惜しんでそのスケートリンクまで小走りで行って、スケート靴を穿いていた。
 ジュンは、なぜかアイスホッケーではゴールキーパーで、その防具は子供にとって一式持つとかなり重いものだった。なぜゴールキーパーかといえば、撫順にいたイトコが、ゴールキーパー用のスティックを四年の頃にプレゼントしてくれた頃から、それを使いたくて、シーズンになると持ち出して真似事をしていたことにもよるのだが、キーパーがその防具を全部身につけると格好良く見えるのが子供心にも、真因だったようだ。
 アイスホッケーの練習は、どうしてもホッケー場の都合で夜にまでに及び、前述のフィギィヤ時間に小休止して、真っ赤に燃えたダルマストーブの前で暖を取り、夕食の時間帯ともなると、アンパンやジャムパンを売店から買って来て、それを半焦げにして、牛乳と一緒に胃の腑に収め空腹を満たしていた。
 ホッケーの順番が来ると、また一時間ミッチリ練習で、パスワークやシュートの練習が一番多かったが、ホッケーのルールにはオフサイドというものがあり、フォワードの停止線の位置に、守備体系から攻撃に移る際がポイントで、その巧拙が勝敗のカギを握っていた。
 ジュンはゴールキーパーのため、常に攻撃練習のフォワードのシュートをグローブで受け止めたり、スティックで払ったりの、言ってみれば達磨が手足を使って防御する格好をしていたのだが、第三者から見れば恐ろしいような滑稽なものだったかもしれない。
 夜十時を回っても家に帰らぬ日などは、さすがに心配だったのだろう、父親の伸介が厚いマントを着込んで迎えに来る晩も再三あった。
 ベストメンバーは、これもほとんど野球やサッカーの選手が主体で、
LFW 小松原、CFW 露崎、RFW 和田、LDF 片瀬、RDF 渡辺、GK 安西
で戦い抜いたが、やはりこれも優勝戦で下藤小学校に2−5で破れた。
 したがってジュンの学校対抗試合の最終学年では、優勝を飾ったことは一度もなく、常に準決勝か決勝で涙を飲んだことになるが、上には上があることを身を持って体験したことは、頂点に立って自惚れることなく、その後の人生にとってはいい教訓となったことに間違いない。
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卒業・進学


 六年生の最後に三学期となり、アイスホッケーシーズンも過ぎると、もうすぐ卒業で、中学校に進学しなければならないのだが、当時でも学区制があり、本来ならばジュンは大連第二中学校に行かねばならぬはずだった。その頃から両親の画策があったようで、今でいう裏口入学であろうが、深く静かな裏面工作が進行していたようだ。当時、満鉄の有力の地位にあった伸介は、撫順時代から知り合いで現大連一中の校長に頼み入り、何としても高校進学率の高い一中に潜り込ませるべく、教育ママ?と共に奔走したようだ。
 それを知ってか知らずかジュンはいい気なもので二月中旬の冬のスポーツシーズンもオフの頃から、同学年の女の子が色々言い寄ってくる(今も昔も女の子の方が色づくのが早いようである)のを半分は面映ゆく、半分は興味ありで、いちいち「美貌」「頭の良さ」「スタイル」「気だての良さ」などを、あの子は何点、この子は何点と点数をつけることにウツツを抜かし、子供ながらもその気はあったのである。
 それというのも卒業すれば、現代のように男女共学ではなく、それぞれ、中学校と女学校に別れ別れになるわけで、当時としてはそれから後には、中学生と女学生が一緒に歩いたり、話したりするのははばかられて時代であり、特に女の子の方がませていたせいか、積極的だったことを憶えている。

 卒業式が近づくにつれて、学級内の優等生が誰と誰かが気にかかりだした。ジュンも光明台小学校に転校以来、学期毎に任命される副級長は何回かやったが、一向に勉強に力を入れた記憶はサラサラなく、五十五人中何番か見当もつかなかったが、どうにか優等生のオトンボで卒業できたのである。
 しかも、大連一中への進学も決まり、両親兄姉ともに喜んでくれたものだが、ジュン自身は一中に大連市内およびその周辺から入学して来るであろう未知の同級生や、中学の生活がどんなものか予測もつかぬまま、入学前から支給された教科書の一部を見ながら、一種の不安と共に武者震いを憶えたものである。
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助け合い


 それとその時期に、落ちこぼれ的な同級生がいて、ヤケっぱちの子等もいたのだが、その連中が中国人の子供や、商売人の屋台(南京豆売りやアンズ売り等)をひっくり返して、イジメやイタズラするのを、毎日のようヤメるよう制して回っていたことが続いた。母親からは弱い者イジメは、“日本男児の恥”と教え込まれていたし、ジュン自身、強いものに向かって行く気概は旺盛な反面、弱い者には手を貸したがる少年に育っていたのだ。
 ジュンの母親は、魚売りや野菜売りの行商に毎日来る中国人を良く理解し可愛がっていたが、ある時野菜屋の中国人が「ゴザが一枚欲しい」と申し出たのを詳しく聞くと「自分の妻がお産の予定日が近い」とのことだったので、それでは「可哀そう」と言うことで古い布団を持って行かせたり、また、年末にはモチつきをしたものだが、出入りのエントツ掃除のニーヤ(この表現は良くないそうだがーー)につかして、一升分程の餅を与えたりしていた。
 長い年月に、中国人を可愛がっていたことで、終戦の日を迎えて百八十度の転換があったとき、ジュンの両親一家は、これらの中国人から逆に面倒を見て貰ったとのことだ。(ジュンは、終戦時には内地にいて、大連の戦後の混乱を知らない。)
 南山麓から光明台と転校したものの、比較的平穏な小学校時代は、良き思い出に包まれ過ぎ去っていった。
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*1 支那事変 1937年(昭和12年)から始まった日本と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘である(ただし、両国とも宣戦布告を行わなかったため事変と称する)。「支那事変」という呼称は、当時の日本政府が定めた公称であるが、現在は日中戦争と呼ばれる。